オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

大斎節第4主日聖餐式 『小さな賜物をイエス様へ』

 本日は大斎節第4主日(バラの主日)。新町の教会で聖餐式を捧げました(高崎は「み言葉の礼拝)。
 聖書箇所は、エフェソの信徒への手紙2:4-10とヨハネによる福音書6:4-15(五千人の給食)。説教では、イエス様は「持っているものの計算」を「よし」とされ、イエス様へ捧げられた小さな賜物を用いられることについて話しました。そして、大斎節の折り返しに当たり「自分はどうあるべきか」問い続け、復活日を迎える準備をするよう勧めました。

      『小さな賜物をイエス様へ』

<説教>
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は大斎節第4主日です。大斎節の折り返し地点に位置する日曜日で、「バラの主日Rose Sunday」と呼ばれる主日です。この日は祭色をバラ色にし、祭壇に花を飾る教会もあります。(orそこで、大斎節中ですが祭壇にお花が飾られています。)大斎節の中間まで無事に来たことを祝うためにバラの花を教会に持ち寄った慣習からこう言われる説があります。
 福音書ヨハネによる福音書の6章4節以下から取られています。聖書協会共同訳聖書の今日の福音書箇所の小見出しは「五千人に食べ物を与える」となっています。「五千人の供食」とか「五千人の給食」と呼ばれているイエス様の奇跡の場面です。ここから、英国ではこの日をリフレッシュメント・サンデー(気分一新または食事の主日)とも呼んでいます。

 マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも、全部の福音書が、この「イエス様が5千人に食べ物を与えられた」という不思議な出来事、奇跡物語を記しています。 
 これをご覧ください。

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 この写真はガリラヤ湖畔の北西にある「パンと魚の奇跡教会」と呼ばれる教会の祭壇の下のモザイクです。5世紀ごろに作られたものだそうです。今日の福音書の出来事が初代教会で大切にされていたことが分かります。
 この箇所では、およそ5000人の人々が、少年が持っていたパン5つと魚2匹で十分食べ、しかも残ったパン切れを集めると12の籠がいっぱいになったことが述べられています。新共同訳聖書では「男たち」と訳されていましたが、本来は今回の訳のように「人々」であり、当時は女性や子供は人数外でした。全体では、おそらく一万人以上が十分食べ満腹したと考えられます。

 今回はこの箇所に登場する3人の人物にスポットを当てたいと思います。イエス様の弟子のフィリポとアンデレ、そして、パン5つと魚2匹を差し出した少年です。
 まず注目したいのはフィリポです。ヨハネ福音書だけが伝えるイエス様が「フィリポを試みるため」という部分です。
 7節で、フィリポは、「めいめいが少しずつ食べたしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えました。
 1デナリオンは当時の1日分の賃金です。仮にそれを1万円とすれば、200デナリオンは200万円です。「1万人の食料を得るためには200万円でも足りないでしょう」というのです。それに対してアンデレは、9節で「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」と答えます。二人とも結論は無理だと言っていますが、ここには微妙な違いがあります。
 フィリポははじめから「不足分の計算」をしました。これだけのものがあっても足らないと。アンデレも悲観的ですが、しかし、彼は「持っているものの計算」をしました。ここに5つのパンと2匹の魚がある、と。この視点の違いは、その後の生き方に大きな差を与えていくことになります。「不足分の計算をする」ということは、神様が与えてくれないものに対する関心であり、それは「不平・不満」になっていきます。それに対して、「持っているものの計算をする」とは、そこにあるものに関心を持つということで、それは神様が与えてくださっているものへの関心であり、その思いは「感謝、賛美」へとつながっていくと考えられます。イエス様が受け入れ、用いられたのは、アンデレの視点でした。つまり、「持っているものの計算」であり、現実をプラス思考で見るということです。「200デナリオンでも足りない」ではなく、「5つのパンと2匹の魚がある」と見るということです。イエス様が大切にされたのは後者の視点であり、私たちの目には「わずか」と思われるものでも、イエス様の祝福によって、「人々が十分食べる」という大きな量の給食を実現されたのです。
 そして、その奇跡が起きたのは、少年が「自分の持っていたお弁当を差し出した」からということも忘れはならないと思います。この少年は、「それを差し出したら自分の分がなくなる」という発想ではなく、「わずかなものでも、今、自分の持っているものをイエス様に差し出した」のです。イエス様はその捧げられたものを用いて素晴らしい奇跡を起こされました。捧げられる量が問題ではなく、人々のために「自分の持っているものをイエス様に差し出した」のです。自分に与えられた小さな賜物をイエス様へお捧げしたのです。その思い、その心をイエス様は用いられるのであります。

 もう一つ印象的なのはこの奇跡の後、12節でイエス様が弟子たちに言われた「無駄にならないように(メー・アポレータイ)」という言葉です。実は、この言葉は同じヨハネ福音書の3章16節の有名な御言葉「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」の「一人も滅びないで」と同じ言葉なのです。給食の奇跡にはただ食べ物を備えてくださる、私たちを養ってくださるだけでなく、私たちが誰「一人も滅びないで、永遠の命を得る」ために、「神様はイエス様をこの世に派遣された」という大きな救いのメッセージも込められているのです。
 
 皆さん、イエス様はフィリポの「不足分の計算」ではなく、アンデレの「持っているものの計算」を「よし」とされ、少年が差し出した「5つのパンと2匹の魚」を用いて大きな奇跡をなされました。それは私たちが「永遠の命を得る」ために「神様がイエス様をこの世に派遣された」ことを示すものでもあります。私たちはこの奇跡を通して、人間の必要に応えられる神様を知り、私たち一人一人は「その恵みに対して何をしていくか」を悟りたいと願います。

 今日は大斎節第4主日「バラの主日」です。今日から後半に入るこの大斎の期節を、私たちの必要を満たしてくださる主イエス様への信仰を深め、神様の恵みに対して「自分はどうあるべきか」・「自分にとって小さな賜物とは何か」を問い続け過ごしつつ、復活の喜びを記念する日を迎える準備をして参りたいと思います。