オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

復活前主日(しゅろの主日) 聖餐式 『主イエス様の祈りに倣う』

 本日は復活前主日。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。
二つの教会とも聖餐式に先立って「しゅろの十字架の祝別」を行い、祝別されたしゅろの十字架をお持ち帰りいただきました。

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 聖餐式の聖書箇所は、フィリピの信徒への手紙2:5-11とマルコによる福音書14:32-15:39。説教では、福音書箇所を長く取り、イエス様の「ゲッセマネの祈り」を中心に十字架上の祈りにも関連づけて、キリスト者の祈りの在り方について語りました。このことで思い浮かぶこととしてA司祭夫妻について記した「聖母の騎士」のS会のH理事長の文章にも言及しました。

      『主イエス様の祈りに倣う』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は復活前主日です。復活日(イースター)の一週間前の日曜です。今日から一週間が聖週(Holy week)です。今日はしゅろの主日Palm Sunday)とも言われます。祭壇にもしゅろが飾られていますね。イエス様がエルサレム入場の時に群衆がしゅろを持ちその枝を道に敷いて歓迎した日です。先ほどの入堂聖歌の聖歌137番はこの日のことを歌っています。聖餐式に先立って「しゅろの十字架の祝別」を行いました。礼拝後、祝別されたしゅろの十字架をお持ち帰り、来年の「大斎始日(灰の水曜日)」まで、ご自宅の思い思いの場所に保管してください。
 
 さて、本日の福音書箇所は長い方を取り、マルコによる福音書14:32-15:39としました。最後の晩餐後の聖木曜日の夜、イエス様がゲッセマネの園で祈ったところから、次の日の聖金曜日(受苦日)午後3時に息を引き取られるまでを描いた箇所です。
 本日はマルコ福音書14:32-42の「ゲッセマネの祈り」と呼ばれる箇所を中心にお話しします。
 ゲッセマネとは地名で、エルサレム旧市街の城壁とイエス様が昇天されたオリーブ山の間の谷間にある園の名前です。アラム語で「オリーブの油搾り」という意味の地名です。ゲッセマネの園には今でも樹齢約二千年と言われるオリーブの木が八本生えています。

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 ゲッセマネは、エルサレムで過ごしていた時にイエス様と弟子たちが祈りの場としていた場所でした。
 最後の晩餐を終えたイエス様は弟子たちとこの場所に来ました。イエス様は、33~34節にありますように「ひどく苦しみ悩み始め」、「私は死ぬほど苦しい。」と弟子たちに言われたのです。イエス様はどうして苦しみ悩まれたのか、どうして死ぬほど苦しいと言われたのでしょうか? 言うまでもなく、これから十字架に架けられることだったでしょう。それは35節で「できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り」とあることからも想像できます。
  この後にはイエス様の驚くべき祈りの言葉が記されています。36節です。
『こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」』
 「アッバ、父よ」の「アッバ」とはアラム語幼児語で、日本語のニュアンスでは「お父ちゃん」とか「パパ」と呼ぶようなものです。幼児がすがるように父親に懇願する思いが、ここに込められています。
 そして「あなたは何でもおできになります。」と全知全能の神様を讃えています。これは私たちが「主の祈り」の前半で「~み名が聖とされますように。み国が来ますように。」と神様を賛美する祈りを献げるのと同じようです。
 続いてイエス様は「この杯を私から取りのけてください。」と自分の願いを神様に率直に述べています。「主の祈り」の後半で「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。~わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と、私たちが人間的な「願いの祈り」を献げるようにです。「この杯」とは「苦いぶどう酒」を入れた「苦難」を暗示する「杯」、「死」を意味します。さらに言えば、飲まなければならない神の裁き、十字架上における神の裁きのことを指していると言えます。イエス様はご自身がメシア、救い主であると自覚して歩んでこられました。罪のないご自身が神の裁きの杯を飲むことによって、すべての人間が救われる、そのことをご存知でした。しかしなお、主イエスは「この杯を私から取りのけてください」と願われました。私はここに共感します。主イエス様も、ご自分の使命を知っていても「苦しみを取りのけてください」と父なる神様に懇願したのであります。
 最後に、イエス様はこう結びます。「しかし、私の望みではなく、御心のままに。」と。直訳すると「私の(願う)ことでなくて、あなたの(願う)ことを私は望みます」、すなわち「自分の願いよりも神様の願いが実現するように」と祈っているのです。イエス様は自分の願いを神様に訴えますが、最後は神様の御手に「委ね」たのです。

 この祈りは、本日の福音書箇所の後半、イエス様が十字架上で述べられた言葉にも表れていると考えます。15:34にこうあります。
『三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。』
 これは父なる神様に訴える、人間的な率直な叫びです。詩編22篇の最初の言葉でもあります。
 そして、37節です。
『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。』
マルコではイエス様の最後の言葉の内容は記されていませんが、ルカではこう記されています。23:46です。
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。』
 ここの「私の霊を御手に委ねます。」は詩編31編6節の言葉です。もしかしたらイエス様は詩編を22編の最初からここまで唱えていたのかもしれません。
 イエス様は十字架上で、人間的な「なぜ私をお見捨てになったのですか」という訴えの後、最後は「御手に委ねます。」と神様の思い(意志)を全面的に受け入れたのです。

 イエス様の「ゲッセマネの祈り」、そしてイエス様の十字架上のこの祈り。これこそ究極の願い、祈りの模範と考えます。「神様の御心(意志)を自分の思い(意志)としてください」という祈りのように思われます。私たちに「神様の意志」をいかにして自分の意志とすることができるか、が問われているように思います。

 このことで、私はあるご夫妻のことを思います。それは昨年11月に帰天されたA司祭と奥様のM夫人です。A先生は10年以上の長い闘病の末、神様のもとに帰られました。このことで、S会のH理事長がカトリックの月刊誌「聖母の騎士」の今年の1月号にこう記しています。
『A司祭は、病名が分かり長い治療を開始した頃から病を受容し、すべてを神に委ね、病と共に地上の生を生きたのです。妻のMさんは「Hさん(A司祭の名)は一つずつ、(体の機能を)神様にお返しして、最後に息をお返しして逝ったの」と夫の死の瞬間を話してくれました。A司祭は10年の病との共生において「魂の聖人」になったのです。』
 A司祭ご夫妻は病を信仰を持って受け止め、神様の意志をお二人の意志とされ、すべてを神様に委ねたのだと思います。

 皆さん、イエス様は十字架を前に「この杯を私から取りのけてください。」と自分の願いを神様に率直に述べました。私たちも、神様に率直に訴え懇願していいのです。心に決めた願いごとを言葉にすることを恐れてはいけないのです。ただし同時に、イエス様のように「しかし、私の望みではなく、御心のままに。」と言うことを付け加えることを忘れてはならないと思います。神様の思い(意志)を自分の思い(意志)とすることができるかが問われていますが、それは自分の力でできるものではありません。そうできるように神様が導いてくださるように祈る、それが私たちキリスト者の祈りなのであります。
 主イエス様の「ゲッセマネの祈り」や十字架上の祈りに倣い、神様の意志を自分の意志とすることができるよう神様の導きを祈り求めて参りましょう。

 本日は復活前主日・しゅろの主日です。今日から始まる聖週を祈りを持って過ごし、主イエス様の十字架に思いを馳せ、聖金曜日(受苦日)を経て、喜びの復活日(イースター)を迎えたいと思います。