オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

大斎節前主日 『イエスに聞き栄光の姿へ』

 本日は大斎節前主日。新町の教会で聖餐式を捧げました(高崎は「み言葉の
礼拝」)。新町は礼拝後、堅信受領者総会があり、報告や予算案等、すべて承認されました。礼拝の聖書箇所は、ペトロの手紙二  1:16-19とマルコによる福音書 9:2-9。説教では、「変容貌(キリストの変容)」の箇所から、当日の特祷に基づきテーマを考え、イエス様に聞き従いイエス様と同じ栄光の姿に変えていただくよう祈ることを勧めました。ラファエロの絵画も使用して視覚からも訴えました。

   『イエスに聞き栄光の姿へ』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 教会の暦では、今日は「大斎節前主日」という主日で、今週の水曜日、17日から「大斎節」に入ります。
 本主日福音書はマルコによる福音書9:2からの、いわゆる「変容貌(キリストの変容)」の箇所で、イエス様が受難予告をされて、エルサレムに行くと決めてから6日後の出来事だと言われています。

 今日の福音書箇所について、解説を加えて振り返ります。
 イエス様は、ペトロ、ヤコブヨハネの3人を連れて、高い山に登られました。その山の上において、弟子たちの目の前で、イエス様の姿が変わったという出来事が起こりました。「衣は真っ白に輝いた。それはこの世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」と記されています。衣が真っ白に輝き、「この世の」とわざわざ断ったのは、この白さが天上の輝きから発出していることを示しています。その光景は、イエス様が神の栄光をお受けになったことを表す姿です。
 そして、そこで、弟子たちは、不思議な光景を目にしました。そこに、モーセとエリヤが現れ、イエス様と話し合っておられたのです。モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、この3人が語り合うとは、イエス様の受難と復活が、聖書に記された神の計画の中にあることを示していると考えられます。

 この場面を描いた絵画があります。バチカン美術館にあるラファエロの「キリストの変容」です。

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 この作品では、上部のイエス様の変容貌の部分に加え、絵の下部にこの箇所の後のエピソード(汚れた霊に取り憑かれた少年を癒やす奇跡)が組み合わさられています。上部では、山の上で姿を変えられたイエス様が輝く光のオーラと雲の中にモーセとエリヤを伴い浮かんでいます。下の地上には弟子たちがいます。その何人かは栄光の光に幻惑され、他は祈りを捧げています。この奇跡を目撃している群衆の身振り・手振りにより二つの奇跡が結びつけられており、群衆の上げた手は、イエス様の方に向かっています。
 
 聖書に戻ります。弟子たちは、その変容貌の光景からイエス様が、モーセとエリヤを相手に、親しく語り合っておられると、とっさに思ったのです。ペトロは思わず口走りました。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」 
 ペトロが幕屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからと考えられます。ちなみにここで「幕屋」と訳されている言葉(スケーネー)は、遊牧民が寄留地での住まいとする「幕屋・天幕・仮小屋」を表します。この前の新共同訳聖書では「仮小屋」、口語訳では「小屋」と訳されていましたが、「幕屋」が原文に一番近いと考えます。
 さて、そのうちに、雲が彼らを覆いました。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。すると、「これは私の愛する子。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえました。声の主はもちろん父なる神様です。「私の愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエス様が洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1:11)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエス様は、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。つまりここで、この受難の道も「神の愛する子」としての道であることが示されたのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を「耳で聞く」という意味ではなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18:15等)。弟子たちが急いであたりを見回しますと、そこには、イエス様のほかには誰もいませんでした。
 イエス様は、山を下っているとき、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と、弟子たちに命じられました。
 これが、山の上でイエス様の姿が変わられた(変容貌)という出来事です。

 この箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 7節に「これは私の愛する子。これに聞け。」とあります。この言葉の前にペトロは5節でイエス様とモーセとエリヤに一つずつ「幕屋」を建てようと提案しています。これは、ペトロはイエス様をモーセやエリヤと同列に置いていると言えます。しかし、その提案は神様から退けられ、神様は「イエス様に聞きなさい」と教えられました。この神様の声は、イエス様こそが旧約聖書を成就する者であることを明らかにしています。そして、イエス様こそ神様が愛してやまない我が子であることが示されました。さらに神様は「これに聞け」とつけ加えました。イエス様が語る通りに、イエス様が行う通りにあなたがたはしなさい、ということです。
 この声が聞こえた後、弟子たちが周囲を見回すと、誰も見えず、イエス様だけが自分たちと共にいるのに気がつきます。弟子たちと共にいるイエス様は、これから十字架の道を歩みます。神様は弟子たちがイエス様と共に十字架を担うことを求めておられるのです。
 十字架の道こそが栄光への道です。それを教えるために、神様が山の上で天からの栄光を弟子たちにまざまざと示して、イエス様に聞き従って受難の道を歩むようにと呼びかけたのです。イエス様と共に十字架を担い、永遠の栄光を目指して歩むべきだ、と。それこそが神様が求めておられることであります。

 皆さん、イエス様は私たちをも神様に出会う山に連れて行ってくださいます。「これは私の愛する子。これに聞け。」という言葉は、私たちにも向けられています。「イエス様に聞く」とはイエス様の言動(言葉と行い)に聞き従うことです。ここでは、受難に向かうイエス様と共に十字架を担うことです。しかし、それは自分の力でできるものではありません。日々聖書を読み祈り、主日の礼拝に参列すること等により、それぞれの十字架を負う力が強められ、徐々にキリストの姿に変容させられていくのだと思います。
 私たちは信仰によってそれを負う力を強めていただき、神様によってイエス様と同じ栄光の姿に変えていただけるよう、祈り求めて参りたいと思います。