オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

顕現後第2主日聖餐式 『イエス様の弟子として』

 本日は顕現後第2主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所はサムエル記上3:1-10とヨハネによる福音書1:43-51。説教では、フィリポとナタナエルがイエス様に出会う場面から思い巡らし、イエス様の弟子として「来て、見なさい」という呼びかけに答え、み言葉に聞き黙想し祈ることを勧めました。「新約時代のパレスチナ」の地図を使い、この箇所に出てくる地名の位置関係をはっきりさせて距離感等をつかむようにしたいと思いました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は顕現後第2主日です。顕現節という期節のテーマは、「イエス様とはどのような方であるか」ということです。そのことについて本日の福音書を通して思い巡らしたいと思います。
 本日の福音書の箇所は、ヨハネによる福音書1:43~51で聖書協会共同訳聖書の表題は「フィリポとナタナエル、弟子となる」です。二人に対するイエス様の呼びかけ・召命に本日の旧約聖書箇所であるサムエルへの神様の呼びかけが対応しています。

 本日の福音書の箇所を、部分的に意訳し解説を加えて振り返ります。
 本日の箇所に場所は示していませんが、ヨハネ1:28で洗礼者ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側のベタニアにいたことが分かり、二日間ヨハネとイエス様が出会って、本日の箇所はその翌日ですから、ベタニア周辺での出来事だと考えられます。(地図で確認する・・・死海の北岸)

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 イエス様がガリラヤへ行こうとしておられる時に、フィリポに出会い、「私に従いなさい」と言われました。フィリポは、ペトロとその兄弟アンデレの出身地であるベトサイダの人でした。(地図で確認する・・・ガリラヤ湖の北岸)彼は、後に12弟子の一人になっています。
 その後で、フィリポは、ナタナエルに出会ってこう言いました。
 「私たちは、イエスという人に出会った。この人はナザレの人で、ヨセフの子イエスという人だ。この人は、モーセが律法に記し、預言者たちが預言しているメシア、救い主だ。」と。ナタナエルは、ガリラヤのカナ出身(ヨハネ21:2)の人でした。すると、ナタナエルは言いました。
 「ナザレからそのような方が出るということなど聞いたことがない。そんなことはあるはずがない」と。心の中で、預言者ミカが「救い主は、ベツレヘムから出る(ミカ5:1)」とはっきりと言っているではないか。」と思ったことでしょう。地図をご覧ください。ナタナエルの出身地カナとナザレは近い距離に位置しています。群馬で言えばかつての前橋と高崎のように、カナに隣接するナザレに対する競争心などがあってか、「あんな所から救い主が出るわけがない」というような気持ちから出た言葉だったかもしれません。
  すると、フィリポは「来て、見なさい」と言いました。
  イエス様は、ナタナエルが自分の方へ来るのを見て、彼に突然言われました。
 「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
 ナタナエルはびっくりしました。ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と尋ねると、イエス様は、さらに答えて言われました。
 「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」と。
 当時の熱心なユダヤ教の信者は、木の下で、律法を読み、黙想をするのが常でした。とくに葉が生い茂ったいちじくの木の下は、涼しく黙想に適した所とされていました。ナタナエルは、フィリポに会う前に、いちじくの木の下でいつものように黙想していたのです。この「前に」という言葉に注目します。これは時間的な「前に」ということ以上に、イエス様がフィリポよりも前に(つまり、先に)ナタナエルを理解していることをも意味しています。言い換えると、イエス様と人との出会いは、いつもイエス様が先であるということです。
 イエス様の言葉を聞いて、ナタナエルは、
 「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言って信仰告白をしました。
 すると、ナタナエルは「もっと大きなことをあなたは見るであろう」と予告されます。それは「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」ことですが、このことは創世記28:12のヤコブの夢の故事に基づいており、神様とイエス様との交わりが特別なものであることを示しています。イエス様は神様のもとから来て、私たちの間に宿られた方、肉となった言です(「受肉」と言います)。そして、イエス様が神の独り子である神であることを「見るであろう」という約束は、ナタナエルだけでなく、「あなたがた」に、言い換えれば、イエス様と出会ってイエス様を信じる者となる、私たちすべての人に向けられているのです。
  なお、「ナタナエル」という名前は「神、与えたもう」「神の賜物」という意味があります。そこには、私たちが神を知る以前から、神は私たちと共にいてくださっている、というメッセージが込められているように思います。これ以後、ナタナエルは、イエス様に従う者となり、弟子の一人になったと言われています。12人の弟子たちのリストの中で、フィリポの次にバルトロマイという人の名前が出てきますが、たぶんこの人がナタナエルのことではないかと言われています。

 本日のこの箇所から、イエス様はどのようなお方であると考えられるでしょうか? また、私たちはどうあったらいいでしょうか?
 イエス様はナタナエルがご自分に近づいたときフィリポから聞く前に彼を理解していました。このように、イエス様は私たちがイエス様に近づいていくとき、既に私たちのことを知っていてくださり、受け入れてくださるお方なのであります。ナタナエルにそのことが示されたのは信仰の友であるフィリポの「来て、見なさい」という言葉を信じて従ったからで、それがイエス様との出会いを生みました。さらに、イエス様が見たのは「いちじくの木の下にいる」ナタナエルであったことにも着目します。そこで彼は神様を思い、み言葉に聞き、黙想していたのです。その結果、彼は神を見ました。
 皆さん、私たちもまた、イエス様の弟子として信仰の友との交わりを大切にし「来て、見なさい」という呼びかけに答え、聖書を読み思い巡らし神様に祈る日々を送るよう招かれています。その結果、神を見ることができるのです。そのことを確認し、全人類の救いのもとである主イエス様にすべてをゆだねることができるよう祈り求めたいと思います。