オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

新たなブログ「マッテアとマルコの家」へ

4月5日(月)から前橋聖マッテア教会で勤務しています。それに伴い新たなブログ「マッテアとマルコの家」を開設しました。アドレスは、https://markoji2.hatenablog.com/  です。よろしければアクセスしてご覧ください。今後はこちらのブログをよろしくお願いいたします。

復活日 聖餐式 『日常生活の中で復活の主に出会う』

 本日は復活日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。この度の人事異動で私は前橋聖マッテア教会に異動となり、本日が高崎での最後の勤務でした。
 聖餐式の聖書箇所は、使徒言行録10:34-43 とマルコによる福音書16:1-8。説教では、「空の墓」におられる天使のような若者の言葉『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』にスポットを当て思い巡らしました。
 2000年に公開されたミュージカル映画ジーザス・クライスト=スーパースター」にも言及しました。
 なお、この「オーガスチンとマルコの家」のブログの掲載は本日で終了し、次回からは「マッテアとマルコの家」のブログを開設し、記事を掲載していく予定です。

 

      『日常生活の中で復活の主に出会う』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 主のご復活おめでとうございます。
 本日は復活日、イースターです。昨年は公祷休止でしたが、今年は皆様とお祝いすることができ、そのことは良かったと思います。しかしながら、新型コロナウイルスの感染は未だ世界中に蔓延していて、東京教区では未だ会衆と共に行う礼拝は休止が続いております。当教会でも礼拝後の祝会は中止し、イースター・エッグの配付も見送りました。その代わりに教会委員会で検討し「み言葉せんべい」をプレゼントすることにしました。どうぞお帰りにはお持ち帰りください。

 ところで、私は、この度の辞令により、前橋聖マッテア教会へ異動となりました。教区の方針で復活日まで人事異動前の体制で行い、本日が私の高崎での最後の勤務であります。榛名聖公教会との兼務から3年間、高崎専従となって2年間の勤務でした。その間、聖堂改修並びに会館落成感謝礼拝や私自身の司祭按手式がこの聖堂で行われ、本当に感慨深く、皆さんに心から感謝しております。高崎聖オーガスチン教会のこれからの歩みの上に、主のみ守りと恵みがありますようお祈りいたします。大変お世話になりました。
 
  さて、本日の福音書箇所についてですが、今年はB年でマルコによる福音書の16章を朗読しました。こんなお話でした。
 イエス様が金曜日に十字架につけられて亡くなり、墓に葬られ、マグダラのマリアヤコブの母マリア、サロメがイエス様の遺体をもっと丁寧に処理しようと思い、日曜日の朝早く墓に行きました。当時は大きな横穴式のお墓で大きな石で蓋をしていたのですが、墓の入口の石が取り除かれ開いていて、イエス様の体がなく空(から)でした。そこに天使と思われる白い衣を着た若者がいて、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」ということを告げました。それは驚きの事だったと思われます。さらにこう言いました。「御覧なさい。お納めした場所である。」と。空の墓を見せて、そして「弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」というメッセージを告げました。この墓が空であるという不思議な出来事に触れ、天使の話を聞いて、この婦人たちはただただ驚きの中にあっただろうと思われます。

 今は、エルサレムの旧市街地にあるゴルゴダの丘とイエス様のお墓に巨大な聖墳墓教会という教会が立っていて、お納めしていた所がその中にあり、巡礼地になっています。私は3年前にイスラエル聖地旅行に行きましたが、旅の終わりにそこを訪ねました。ものすごい人でお墓の内部に入るのに3時間かかるというので入るのを諦めました。その時「ここには何もない、イエス様はここにはおられないのだからまあ入らなくてもいいかな」と思って、お墓を外から見て「入ることができなくても仕方がない」と自分に納得させたことを思い出しました。

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 今日の福音書の箇所では、7節にある、天使の言った『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』という言葉に注目しました。ガリラヤというのは弟子たちの馴染みの場所、仕事をしたり暮らしたり、そしてイエス様と共にいた自分たちの故郷です。イエス様が亡くなったのはエルサレムで、ナザレの人々にとっては馴染みのない所でイエス様は亡くなられたのですが、復活されるのはガリラヤということです。弟子たちにとって、自分たちが働いて暮らしていたその場所でイエス様が復活して、出会ってくださるというのです。これは本当に大きな恵みだと思います。
 では、私たちにとっての「ガリラヤ」とはどこでしょうか? それは私たちの今の現実の日常生活ではないでしょうか? 自分が今暮らしている家庭や学校や会社、地域など、生活し活動しているいつもの馴染みの場所が、私たちのガリラヤなのだと思います。そのガリラヤで私たちも復活した主に出会うことができる。それをこの天使が私たちに告げている、そう思うのです。

 一昨日の聖金曜日(受苦日)の礼拝の説教で、この聖週に映画「パッション」をDVDで見たことをお話ししましたが、もう一本この映画も最近DVDで見ました。

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 それは「ジーザス・クライスト=スーパースター」という2000年に公開されたミュージカル映画です。「オペラ座の怪人」等で有名なロイド・ウェーバー作曲によるロック・オペラです。実は「ジーザス・クライスト=スーパースター」には1973年に公開されたものもあるのですが、そちらはイエス様最後の七日間を基本的には2000年前のエルサレムを舞台に描いています。それに対してこの2000年版の方は、ブロードウェイでのリバイバル上演をベースに、舞台を現代のニューヨークとして、そこでイエス様が生き、人々と関わり、受難物語が進行していました。それはまるで、イエス様は2000年前のイスラエルの過去の遠いところの人ではない、今の自分の生きている日常生活の中で、私たちはイエス様に日々出会うことができるのだと言っているように思いました。

 さらに、先ほど注目した天使の言葉『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』では「あなたがたより先に」「~行かれる。」と語っています。この言い回しは意味深いと思われます。イエス様は、私たちよりも先に行かれる、行って待っていてくださる。そこに私たちが行くのです。これは、私たちはイエス様のみ跡を歩むということです。するとそこでイエス様にお会いすることができるのです。
 言い換えれば、イエス様のみ跡を歩むことで、日常生活の中で復活の主イエス様に出会うことができるのだと言えます。その時、私たちに必要なものは何でしょうか? それは「信仰の目」だと思います。その目を持てば「空の墓」を見て、その先にあるものを見ることができます。それにより、天使の言った「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。~そこでお目にかかれる。」という言葉の意味を正しく理解できるでしょう。
 2000年前の弟子たちは、イエス様の十字架を前に「イエス様を知らない」と言ってちりぢりになってしまいましたが、その後、復活の主と出会って、生き方が変わり、新たな信仰者として力強く歩み出しました。復活の証人としてです。このように復活の主に出会うことにより、新たな人生を歩むことができるのです。

 皆さん、復活日を迎えた私たちは、その喜びを味わうと共に、「空の墓」の先を見る信仰の目を養っていきたいと願います。そして、主イエス様のみ跡に従い、それぞれのガリラヤである、今、ここの日常生活の中で復活の主に出会い、復活の証人として力強く歩んでいくことができるよう祈り求めたいと思います。

 

聖金曜日(受苦日)礼拝 『真理とは何か・・・この人を見よ』


 本日は聖金曜日(受苦日)。高崎の教会で聖金曜日の礼拝を捧げました。
 聖餐式の聖書箇所は、イザヤ書 52:13-53:12とヨハネによる福音書18:1-19:37。説教では、ピラトの言った2つの言葉「真理とは何か」と「見よ、この男だ」にスポットを当て思い巡らし、ヨハネ福音書のテーマ「神は愛である」を実感するよう語りました。この箇所で思い浮かべる映画「パッション」にも言及しました。

      『真理とは何か・・・この人を見よ』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 私たちは今、聖金曜日(受苦日)の礼拝を行っています。本日の福音書箇所はヨハネ福音書のイエス様受難の箇所で、かなり長い朗読でした。 

    この箇所で私の頭にすぐ浮かんだのは「パッション」という映画でした。

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 この映画は2004年に公開され、鞭打ちのシーンなどかなりリアルで、ショック死した人も出て話題となりました。ご覧になりましたか? 私はこの聖週にDVDで見直しました。
 
 映画にもありましたが、私が今回ここでまず注目したのは、ピラトのこの言葉です。18章38節です。
『ピラトは言った。「真理とはなにか」。』
 ピラトはイエス様にこう尋ねました。ローマ帝国ユダヤの総督である権力者、ピラトも真理を探し求める人であったのです。この「真理」は原語のギリシャ語ではアレセイアと言い、英語の聖書ではtruthとありました。真理と訳すのがいいのか、真実、と訳したほうがいいのか…ギリシャ語の辞書には両方ありました。言い換えれば、本当のもの、あるいは最も大切なもの、ということだと思います。「真理、あるいは真実とは何か」と尋ねて、この対話が打ち切られます。結局ピラトにとって、ほんとに大事なものは何なのか、分からないままでした。それは私たちが思い巡らす一つのテーマだと思います。自分にとって真実とは一体何なのか、別の言葉で言えば、自分にとって大事なもの、大切なものは一体何なのか、ということです。
 ピラトにおいて、それは権力でした。ですから、イエス様に向かって「王なのか?」と聞いています。「お前がユダヤ人の王なのか」と。18章33節です。ピラトは非常に残忍な人で、結局は失脚しますが、あまりに残酷で、次々と人を殺しても平気だったと言われます。しかし、ここでのピラトはイエス様の味方で、「イエス様を救いたい」と願っているようにさえ感じます。ピラトはイエス様を釈放したいと思ったようです。それで、紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせて、この姿を皆の前に見せたら、もう、皆許してくれるだろうと考えたのかもしれません。19章5節にこうあります。
『イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。』
 ピラトはイエス様を皆の前に連れていって、「見よ、この男だ」と言いました。ラテン語では「エッケ ホモ」と言います。映画でも、ユダヤ人の大群衆にピラトは「エッケ ホモ」といってイエス様を指さしていました。ちなみにこの映画では、イエス様はアラム語ユダヤ人はヘブライ語、ピラトやローマ兵たちはラテン語で話していました。ピラトとイエス様の対話などには、おそらく実際には通訳がいたのではないかとも言われています。

 「エッケ ホモ。見よ、この男だ」は「見よ、これが人間だ」「この人を見よ」とも訳せます。次に注目したい言葉がこれです。聖歌にもあります、「この人を見よ」と。それはこの後歌う聖歌357番です。 
 1節の歌詞はこうです。
「1 まぶねの中に産声あげ たくみの家に人となりて 
   貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」 
 2節・3節も見て参りましょう。
「2 食する暇も うち忘れて 虐げられし 人を訪ね 
   友なきものの 友となりて 心砕きし この人を見よ 
 3 すべてのものを 与えしすえ 死のほかなにも 報いられで 
   十字架の上に あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ」
 この聖歌はイエス様の生涯が歌われ、4節までありますが、各節の最後がどれも「この人を見よ」となっています。 
 ピラトは「この人を見よ」「見よ、この男だ」と言いますが、ユダヤ人たちの「十字架にかけろ」という声にピラトは圧倒され、結局、イエス様を釈放できませんでした。ここではピラトは証人のようです、「見よ、この人を」と。途中から証人のようになってきて「見よ、あなたたちの王だ」と。逆にこの人が王だと言っています。19章14節です。ピラトがそう告白しても、「十字架につけろ」という声に、ピラトは恐れおののいてしまいます。

 「この人を見よ」(エッケ、ホモ)ということを、私たちも日々の生活や祈りの中で行うことが求められているように思います。十字架につけられたイエス様を見つめて、そこに何を見い出すかということです。皆さんは十字架のイエス様の姿にどういう真実、真理を見い出しますか? 
 イエス様は言います。18章37節の後半です。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と。声だけではなくてイエス様の姿を見る、ということも含めているのでしょうが、何が自分にとって真実であるか、イエス様は何の真理を証ししたのか、それを知るためにはイエス様の声を聞き、姿を見ることが肝要であるということだと思います。つまり、イエス様の姿にどういう真実を見い出すのか、イエス様の十字架、復活、あるいはその言葉や行動に、どういう真理を見い出していくのかということです。
 最終的にイエス様が証しした真理は、ヨハネ福音書の始めから最後までに記されているように「神は愛である」ということだと思います。私たちは「神は愛である」ことをご自身の生き方で示したイエス様をよくよく見つめることが求められていると考えます。

 結局、ピラトはイエス様を十字架につけます。罪状書きには、「ナザレのイエスユダヤ人の王」とありました。…イエス様は王として、ナザレの人ですが王として宣言されて十字架上で亡くなります。しかも、ヘブライ語ラテン語ギリシア語で書いてあったのです。その時の世界の共通語全部で書いてあったのです。つまり、全人類に向かってそれが宣言され、イエス様が全人類の救い主であることを指し示していると考えられます。
 イエス様を、十字架上のイエス様を私たちを王として、私たちのメシア、救い主として、本当にこの世を治めている者としてイエス様を見つめていくことができるかどうか。そこに、私たちの生きていく真実を見い出していけるかどうか。それを日々の生活や祈りの中で振り返りたいと思います。自分の真実は何なのか、実際何を大切にしているのか、そのようなことを今日の聖金曜日(受苦日)に思い巡らし、深められたらいいと思います。

 皆さん、イエス様は私たちを救うために十字架上で死を遂げられました。そのイエス様を見つめ、自分にとって何が真実なのか、何を大切にしているか思い巡らし、その中で「神は愛である」ことを私たちが実感できるよう神様の導きを祈りたいと思います。

 最後に、先ほど触れた聖歌357番「この人を見よ」の4節をお読みします。
 4 この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる
   この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神なれ
 私たちは、このように真理を証しするイエス様を見つめ、イエス様を心から賛美するものでありたいと祈り求めます。

 

 

復活前主日(しゅろの主日) 聖餐式 『主イエス様の祈りに倣う』

 本日は復活前主日。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。
二つの教会とも聖餐式に先立って「しゅろの十字架の祝別」を行い、祝別されたしゅろの十字架をお持ち帰りいただきました。

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 聖餐式の聖書箇所は、フィリピの信徒への手紙2:5-11とマルコによる福音書14:32-15:39。説教では、福音書箇所を長く取り、イエス様の「ゲッセマネの祈り」を中心に十字架上の祈りにも関連づけて、キリスト者の祈りの在り方について語りました。このことで思い浮かぶこととしてA司祭夫妻について記した「聖母の騎士」のS会のH理事長の文章にも言及しました。

      『主イエス様の祈りに倣う』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は復活前主日です。復活日(イースター)の一週間前の日曜です。今日から一週間が聖週(Holy week)です。今日はしゅろの主日Palm Sunday)とも言われます。祭壇にもしゅろが飾られていますね。イエス様がエルサレム入場の時に群衆がしゅろを持ちその枝を道に敷いて歓迎した日です。先ほどの入堂聖歌の聖歌137番はこの日のことを歌っています。聖餐式に先立って「しゅろの十字架の祝別」を行いました。礼拝後、祝別されたしゅろの十字架をお持ち帰り、来年の「大斎始日(灰の水曜日)」まで、ご自宅の思い思いの場所に保管してください。
 
 さて、本日の福音書箇所は長い方を取り、マルコによる福音書14:32-15:39としました。最後の晩餐後の聖木曜日の夜、イエス様がゲッセマネの園で祈ったところから、次の日の聖金曜日(受苦日)午後3時に息を引き取られるまでを描いた箇所です。
 本日はマルコ福音書14:32-42の「ゲッセマネの祈り」と呼ばれる箇所を中心にお話しします。
 ゲッセマネとは地名で、エルサレム旧市街の城壁とイエス様が昇天されたオリーブ山の間の谷間にある園の名前です。アラム語で「オリーブの油搾り」という意味の地名です。ゲッセマネの園には今でも樹齢約二千年と言われるオリーブの木が八本生えています。

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 ゲッセマネは、エルサレムで過ごしていた時にイエス様と弟子たちが祈りの場としていた場所でした。
 最後の晩餐を終えたイエス様は弟子たちとこの場所に来ました。イエス様は、33~34節にありますように「ひどく苦しみ悩み始め」、「私は死ぬほど苦しい。」と弟子たちに言われたのです。イエス様はどうして苦しみ悩まれたのか、どうして死ぬほど苦しいと言われたのでしょうか? 言うまでもなく、これから十字架に架けられることだったでしょう。それは35節で「できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り」とあることからも想像できます。
  この後にはイエス様の驚くべき祈りの言葉が記されています。36節です。
『こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」』
 「アッバ、父よ」の「アッバ」とはアラム語幼児語で、日本語のニュアンスでは「お父ちゃん」とか「パパ」と呼ぶようなものです。幼児がすがるように父親に懇願する思いが、ここに込められています。
 そして「あなたは何でもおできになります。」と全知全能の神様を讃えています。これは私たちが「主の祈り」の前半で「~み名が聖とされますように。み国が来ますように。」と神様を賛美する祈りを献げるのと同じようです。
 続いてイエス様は「この杯を私から取りのけてください。」と自分の願いを神様に率直に述べています。「主の祈り」の後半で「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。~わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と、私たちが人間的な「願いの祈り」を献げるようにです。「この杯」とは「苦いぶどう酒」を入れた「苦難」を暗示する「杯」、「死」を意味します。さらに言えば、飲まなければならない神の裁き、十字架上における神の裁きのことを指していると言えます。イエス様はご自身がメシア、救い主であると自覚して歩んでこられました。罪のないご自身が神の裁きの杯を飲むことによって、すべての人間が救われる、そのことをご存知でした。しかしなお、主イエスは「この杯を私から取りのけてください」と願われました。私はここに共感します。主イエス様も、ご自分の使命を知っていても「苦しみを取りのけてください」と父なる神様に懇願したのであります。
 最後に、イエス様はこう結びます。「しかし、私の望みではなく、御心のままに。」と。直訳すると「私の(願う)ことでなくて、あなたの(願う)ことを私は望みます」、すなわち「自分の願いよりも神様の願いが実現するように」と祈っているのです。イエス様は自分の願いを神様に訴えますが、最後は神様の御手に「委ね」たのです。

 この祈りは、本日の福音書箇所の後半、イエス様が十字架上で述べられた言葉にも表れていると考えます。15:34にこうあります。
『三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。』
 これは父なる神様に訴える、人間的な率直な叫びです。詩編22篇の最初の言葉でもあります。
 そして、37節です。
『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。』
マルコではイエス様の最後の言葉の内容は記されていませんが、ルカではこう記されています。23:46です。
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。』
 ここの「私の霊を御手に委ねます。」は詩編31編6節の言葉です。もしかしたらイエス様は詩編を22編の最初からここまで唱えていたのかもしれません。
 イエス様は十字架上で、人間的な「なぜ私をお見捨てになったのですか」という訴えの後、最後は「御手に委ねます。」と神様の思い(意志)を全面的に受け入れたのです。

 イエス様の「ゲッセマネの祈り」、そしてイエス様の十字架上のこの祈り。これこそ究極の願い、祈りの模範と考えます。「神様の御心(意志)を自分の思い(意志)としてください」という祈りのように思われます。私たちに「神様の意志」をいかにして自分の意志とすることができるか、が問われているように思います。

 このことで、私はあるご夫妻のことを思います。それは昨年11月に帰天されたA司祭と奥様のM夫人です。A先生は10年以上の長い闘病の末、神様のもとに帰られました。このことで、S会のH理事長がカトリックの月刊誌「聖母の騎士」の今年の1月号にこう記しています。
『A司祭は、病名が分かり長い治療を開始した頃から病を受容し、すべてを神に委ね、病と共に地上の生を生きたのです。妻のMさんは「Hさん(A司祭の名)は一つずつ、(体の機能を)神様にお返しして、最後に息をお返しして逝ったの」と夫の死の瞬間を話してくれました。A司祭は10年の病との共生において「魂の聖人」になったのです。』
 A司祭ご夫妻は病を信仰を持って受け止め、神様の意志をお二人の意志とされ、すべてを神様に委ねたのだと思います。

 皆さん、イエス様は十字架を前に「この杯を私から取りのけてください。」と自分の願いを神様に率直に述べました。私たちも、神様に率直に訴え懇願していいのです。心に決めた願いごとを言葉にすることを恐れてはいけないのです。ただし同時に、イエス様のように「しかし、私の望みではなく、御心のままに。」と言うことを付け加えることを忘れてはならないと思います。神様の思い(意志)を自分の思い(意志)とすることができるかが問われていますが、それは自分の力でできるものではありません。そうできるように神様が導いてくださるように祈る、それが私たちキリスト者の祈りなのであります。
 主イエス様の「ゲッセマネの祈り」や十字架上の祈りに倣い、神様の意志を自分の意志とすることができるよう神様の導きを祈り求めて参りましょう。

 本日は復活前主日・しゅろの主日です。今日から始まる聖週を祈りを持って過ごし、主イエス様の十字架に思いを馳せ、聖金曜日(受苦日)を経て、喜びの復活日(イースター)を迎えたいと思います。

 

「いつくしみ深き(聖歌482番・讃美歌312番)」に思う

 先日、3月18日に私がチャプレンをしている玉村町のマーガレット幼稚園の卒園式がありました。その中で都澤しづ子園長先生が園長式辞で卒園するバラ組の皆さんへ『「いつくしみ深き」の聖歌を忘れずにいてほしい』と話しておりました。この聖歌(聖歌482番・讃美歌312番)については、7月6日のブログで、曲は小学校の音楽の教科書で「星の世界」として親しまれてきたメロディーであることを記しましたが、歌詞については言及しませんでした。
 今回は日本で一番親しまれている聖歌・讃美歌かもしれない聖歌482・讃美歌312「いつくしみ深き友なるイエスは」について思い巡らしたいと思います。
 この曲は多くの方の愛唱歌で、今年の1月18日に帰天された新町の信徒であった瀧沢よし子姉と夫である進一さんの愛唱歌でもありました。マーガレット幼稚園でも誕生会などで必ず歌っているよく知られている聖歌です。
 慈しみ深い私たちの友であるイエス様は私たちの罪や憂いを取り去ってくださる、私たちの弱いことを知って憐れんでくださる、愛をもって導いてくださるという慰めに満ちた聖歌です。
「いつくしみ深き友なるイエスは」については、大塚野百合の「賛美歌・聖歌ものがたり」に詳しく記されていました。

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 この本の中に、作曲をしたチャールズ・C・コンヴァースについてはこうありました。
『彼はニューヨークのエルミラ・カレッジを卒業してから日曜学校歌集を編纂する仕事に携わっていました。その後、1855年から1859年までドイツのライプツィヒ音楽学校に留学し、そこでフランツ・リストと親しく交わる幸運に恵まれました。アメリカに帰ってから、アルバニー大学で法律を学び、弁護士になりましたが、その傍ら作曲もしていました。1868年にスクライヴィンの"What A Friend We Have in Jesus"の歌に出会い、深く心を動かされ作曲しました。この曲によってこの歌は素晴らしい生命を与えられ、世界中で愛唱されています。』
 では、この歌の作詞をしたジョゼフ・スクライヴィンとはどのような人でしょうか? 彼は1816年にアイルランドで生まれカナダで教師をした人です。彼はどういう経緯でこの歌詞を書いたのでしょうか?
 実はこのスクライヴィンという人、67年の生涯において二人の婚約者がいましたが、二人とも彼と結婚することなく亡くなっています。一人目は結婚式の前日に溺死し、二人目は結核で病死しています。愛する人との離別を二度も経験した彼は、それでも絶望することなく教師として、また奉仕活動家として人々のために尽くし、その人生を終えました。「いつくしみ深き」は1番、2番、3番…と年をあけて作詞されており、そこにはその時その時に彼が遭遇した苦難、そしてそれを神への祈りによって克服し、前へ進んでいった様子が反映されていると言われています。
 聖歌482・讃美歌312「いつくしみ深き友なるイエスは」の歌詞はこうです。

1  いつくしみ深き 友なるイェスは
  罪 科(とが) 憂いを 取り去りたもう
  心の嘆きを 包まず述べて
  などかは下ろさぬ 負える重荷を

2  いつくしみ深き 友なるイェスは
  我らの弱きを 知りて憐れむ
  悩み悲しみに 沈めるときも
  祈りに応えて 慰めたまわん

3  いつくしみ深き 友なるイェスは
  変わらぬ愛もて 導き給う
  世の友のわれ(友われら)を 捨て去るときも
  祈りに応えて いたわりたまわん

 英語の原詩はこうです。

1 What a Friend we have in Jesus,  all our sins and griefs to bear!
   What a privilege to carry  everything to God in prayer!
    O what peace we often forfeit,  O what needless pain we bear,
    All because we do not carry  everything to God in prayer.

2 Have we trials and temptations?  Is there trouble anywhere?
    We should never be discouraged;  take it to the Lord in prayer.
    Can we find a friend so faithful  who will all our sorrows share?
    Jesus knows our every weakness; take it to the Lord in prayer

3 Are we weak and heavy-laden, Cumbered with a load of care?
  Precious Savior, still our refuge— Take it to the Lord in prayer;
  Do thy friends despise, forsake thee? Take it to the Lord in prayer;
  In His arms He'll take and shield thee, Thou wilt find a solace there.

 大塚野百合による直訳はこうです。
1 何という素晴らしい友でしょうか、主イエスが私たちのすべての罪と悩み  を負ってくださるとは!
  何という特権でしょうか、すべてを神に祈ることができるのは!
  しかし、なんとしばしば私たちは平安を受けそこない、無駄に心を痛める  のでしょうか。
  すべてのことを神に告げる祈りをしないからです。

2 試練や誘惑に出会っていますか? 困難がありますか? 
  失望してはいけません。主に祈りなさい。
  こんなに真実な友があるでしょうか? 私たちのすべての悲しみを感じて  くださるという方が?
  主イエスは私たちの弱さを全部ご存知です。主に祈りなさい。

3 重荷に弱り、心労に疲れていますか? 
  貴い主は私たちの逃れ場です。主に祈りなさい。
    友に軽蔑され、捨てられていますか? 主に祈りなさい。
    主はそのみ腕にあなたを抱き、あなたを守ってくださいます。そこにあなたは慰めを見いだすでしょう。
   
   
 冒頭記した都澤園長先生が卒園する園児たちに「この歌を忘れずにいてほしい」と言ったのは、「これからの人生において様々な困難があっても、イエス様が共にいてくださることをずっと覚えていてほしい」という意味だったのだと思います。

 そのことに関係して思い浮かべる聖句があります。詩篇 37:5です。
「あなたの道を主に任せよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
 
 神様は私たちがすべてを主に委ね、主に信頼することを求めておられます。私たちの進む道は神様がすべて守ってくださり、主がなし遂げてくださるのです。

 瀧沢よし子姉の葬送式の説教で私はこう述べました。
『この曲を作詞したスクライヴィンが苦難を神への祈りによって克服し、前へ進んでいったこと、そしてよし子さん・進一さんご夫婦がこの歌を愛唱していたことに思いを馳せるとき、ことに2節の「祈りに応えて慰め給わん」3節の「祈りに応えていたわり給わん」とあるように、お二人がイエス様に祈り、イエス様はお二人の祈りに応え、そして人生を歩まれたことを想像するのであります。』と。
 祈りはこのように重要で価値あるものなのだとつくづく思います。
 さらに2節の「いつくしみ深き友なるイェスは 我らの弱きを知りて憐れむ」の箇所が心に響きます。直訳では「主イエスは私たちの弱さを全部ご存知です」でした。「全部」というところが神の完全性を示しているように思います。だからこそイエス様にすべてを委ねることができる。神様にまったく信頼し祈り続けていきたいと思うのです。  
  聖歌482・讃美歌312「いつくしみ深き友なるイエスは」は真に慰めに満ちた、信仰者の人生を支える曲であると考えます。

 

大斎節第5主日聖餐式 『一粒の麦によって生かされる』

 本日は大斎節第5主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、エレミヤ書31:31-34とヨハネによる福音書12:20-33。説教では、一粒の麦に例えたイエス様の生き方について思い巡らし、イエス様によって生かされた私たちが今度は自分を献げる生き方ができるよう語りました。また、映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」を具体例として示しました。

      『一粒の麦によって生かされる』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は大斎節第五主日です。そして、次の主日は復活前主日・棕櫚の日曜日です。大斎節も終盤になりました。第五主日は、いよいよ十字架の接近を思わせる箇所が福音書として選ばれています。
 今日の福音書箇所はヨハネによる福音書12:20-33です。今日の箇所をまとめれば次のように言うことができると思います。
『年に一度の祭りのためにエルサレムに上って来た人々の中に、異邦人である何人かのギリシア人がいて、「イエス様にお目にかかりたい」と言って来ました。イエス様の答えは、「地に落ちて死」ぬ一粒の麦のようにイエス様が十字架で栄光を受ける時、すべての人を自分のもとに引き寄せる、つまり、異邦人を含むすべての人が「イエス様にお目にかかることができる」ということでした。』

 今日の箇所で、イエス様はご自分の使命を一粒の麦にたとえて語られました。24節です。
「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 麦が地に落ちて死ねば(朽ちれば)、多くの実を結びます。そのように、イエス様の死も多くの人に命をもたらすというのです。そしてそのことをこう言い換えています。25節です。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」
 これはどういう意味でしょうか? ここに「命」という言葉が3回出てます。ギリシア語では、「命」は2つの言葉があり、最初の2つ「自分の命を愛する者は」と「この世で自分の命を憎む者は」の「命」は、プシュケーという言葉で、本来、「息」を示し、地上の命を表します。それに対して、3つ目の「永遠の命に至る」の「命」は、ゾーエーという言葉で、霊的な、永遠の命を表しています。自分の命(プシュケー)を「愛する」とは、地上の命に固執し、それを自分のために使おうとする生き方です。それに対して「憎む」とは、命を粗末に扱うことではなく、この世で与えられた時間を「永遠の命(ゾーエー)」のために捧げる生き方と言えます。このように、イエス様の十字架にならい自分を捨ててイエス様に仕える者はイエス様の「いる所」にいて、父なる神様も「大切にしてくださる」というのです。

 ところで、イエス様の死の意味を「一粒の麦」にたとえた今日の箇所から思い浮かべた映画があります。それは昨年2月に前橋シネマハウスで見た「一粒の麦 荻野吟子の生涯」です。

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 この映画については以前にも説教で取り上げましたが、今日はその時と別の観点からお話しします。
 主人公の荻野吟子は日本最初の女性医師です。荻野吟子は現在の熊谷市に生まれ、埼玉県の三偉人の一人と言われているそうです。ちなみにその他の二人は、深谷市生まれの大河ドラマで話題の渋沢栄一本庄市生まれの江戸時代の盲人の国文学者、塙保己一はなわ ほきいち)です。「一粒の麦 荻野吟子の生涯」はこのような映画でした。
『明治初頭の男尊女卑の時代、荻野吟子は17歳で結婚して夫から性病を移されました。子供の産めない体になり19歳で離婚しますが、治療のため男性の医者にこの身をさらすことは耐え難い屈辱でした。その時、吟子は「私のような思いをした女性が多いはず。自分が医者となり女性たちを救いたい」という夢を持ちました。そして、吟子は多くの苦難の末、1885年、34歳で医術開業試験に合格し、荻野医院を開業しました。その頃、友人の誘いで教会に通うようになり、医院開業の翌年、本郷教会で海老名弾正から受洗し、廃娼運動に取り組んでいたキリスト教婦人矯風会に参加しました。また、日本初の知的障害者施設である滝乃川学園を創設した石井亮一の友人である牧師の志方之善(しかたゆきよし)とともに孤児の救済事業にも取り組みました。その後、吟子は13歳年下である志方之善と1890年に再婚し、北海道に渡って開業しました。志方之善は北海道でキリスト教の理想郷「インマヌエル村」を作ろうとしますが、志なかばで41歳で亡くなります。之善の死後、吟子はしばらく北海道にいましたが、東京に戻り産婦人科・小児科の医師として献身的に働き、彼女に続く女性医師を励まし、62歳で亡くなりました。』
 このような映画でした。荻野吟子は日本初の女医として、そして夫の志方之善は理想に燃える牧師として生きましたが、その源泉は何だったでしょうか?
 それは、二人が信じた主イエス・キリストにあると言えます。イエス様は、一粒の麦が地に落ちて死ぬように、十字架で死なれました。しかし、それによって、私たちを永遠の命に生きる者とされました。このイエス様の愛を自分のものとして受け取って生きる時に、私たちも一粒の麦としての生き方に招かれます。それが荻野吟子、そして志方之善の生き方でした。つまり、周りの人たちのために自分を献げて生きる生き方であります。 
 私たちも、イエス様という一粒の麦によって生かされた者です。そして、神様は、私たちも周りの人たちの救いのために小さな実を結ぶことを望んでおられます。それが「主に仕え主に従うこと」と言えます。
 
 皆さん、神様は、私たち一人一人が生きてこの地上にあるこの時から、永遠という命(ゾーエー)でつないでいてくださっています。死んで初めて永遠の命に結ばれるのではありません。私たちは今日もう既に、永遠という命に結ばれているのです。
  イエス様はご自分に従うことを求めておられます。そうすれば私たちはイエス様のところにいることができるのです。さらに御父である神様は私たちを大切にしてくださるのです。
 神様は私たちのために、一粒の麦であるイエス様をこの世に遣わし十字架に上げ、それによって私たちに神様とつながる永遠の命を与えてくださいました。イエス様によって生かされた私たちが、今度は周りの人たちのために自分を献げる生き方ができるよう、祈り求めたいと思います。

 

「T. S. エリオットの詩と信仰(3)」

 これまでT. S. エリオットの詩と信仰について2回取り上げました。最初は、彼の詩「聖灰水曜日(灰の水曜日)」について、2回目は詩集「キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法」とミュージカル「キャッツ」についてでした。今回は彼の詩業の集大成であり「現代の宗教文学・瞑想詩の一秀作」とも言われる長編詩「4つの四重奏曲」、そして彼の信仰について思い巡らしたいと思います。
  「4つの四重奏曲 Four Quartets」はエリオット51歳の1943年に刊行されました。《バーント・ノートンBurnt Norton》(1936発表)、《イースト・コーカーEast Coker》(1940)、《ドライ・サルビッジズThe Dry Salvages》(1941)、《リトル・ギディングLittle Gidding》(1942)という作者ゆかりの地名をそれぞれ題名とした4編の室内楽的構成の詩より成っています。
 今回、私が読んだ詩及び解説はこの本「四つの四重奏曲(T. S. エリオット、森山泰夫 注・訳)」です。

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 この本の「はしがき」の一節にこうあります。
『Four Quartetsは人生最高の真理を渇望する心を、自然な言葉が持つ最高の美を引き出して表現した4篇の詩である。作者の詩の修行がここに大成を見、魂の遍歴の最後の道程がここに窺われる。(中略)永遠の真理を求める魂の憧憬は、この詩においてついに光を見出し、豊かな歓びが漂っている』
 「Ⅱ 思想内容」の項にはこうあります。
『Four Quartetsのテーマは、一口に言って「時間と非時間が人間の生に対して持つ意義」である。これをやや敷衍すれば、時間の中で生活しながら非時間(永遠)に接することを願い、果たし、そして時間の世界のみならず非時間の世界をも視野に収めながら、現実を新しい気概をもって生きてゆく決意を歌っている』
 このようにエリオットの研究者である森山泰夫教授は述べています。
 
   最初の詩《バーント・ノートンBurnt Norton》の冒頭はこうなっています。

  Time present and time past
  Are both perhaps present in time future,
  And time future contained in time past.
   If all time is eternally present
   All time is unredeemable.
   What might have been is an abstraction
   Remaining a perpetual possibility
   Only in a world of speculation.
   What might have been and what has been
   Point to one end, which is always present.
   Footfalls echo in the memory
   Down the passage which we did not take
   Towards the door we never opened
   Into the rose-garden. My words echo
   Thus, in your mind.

    現在の時も過去の時も
  たぶん未来の時の中にあり、
  また未来の時は過去の時に含まれる。しかし
  もしもあらゆる時が常にそこにあるなら
  あらゆる時が贖えなくなる。
  「そうなっていたかもしれない」ことは
  臆測の世界でのみいつも可能な
  抽象にすぎない。しかし
  「そうなっていたかもしれない」ことも「そうなっている」ことも
  所詮は同じことで、いつもそこにある。
  足音が記憶の中にこだまを響かせながら
  まだ通ったことのない狭い路地を辿って
  まだ開けたことのない扉に向かい
  バラ園に入って行く。ぼくの言葉も
  そんなふうにきみの心にこだまする。

 ここでは、時間についての抽象概念を詩的に要約しています。過去は現在に生き、現在はやがて未来に続いてその中で生きる・・・こう考えれば、私たちは常に過去や未来に接することができます。それは時を「取り戻す」ことによって可能になると言っているようです。
 5行目の「All time is unredeemable.(あらゆる時が贖えなくなる)」に注目します。redeemは単なる「取り戻す」ことではく、何かを犠牲にして、その代償として取り戻す。つまり「贖う」ことです。その典型はキリストの贖罪であり、ここでも言外にこのことに言及していると言えます。
   14行目のthe rose-garden (バラ園)は、過去の経験世界の楽園(パラダイス)でもあると考えます。詩人は、そこに入る追体験の旅に私たちを誘っているように思われます。

 この後、時間に関する様々な思索・黙想の旅が続きますが、4篇目の最後の詩《リトル・ギディングLittle Gidding》の最終章に印象的な言葉がありました。

  What we call the beginning is often the end
  And to make an end is to make a beginning.
  The end is where we start from…
  ・・・・・
  We shall not cease from exploration
  And the end of all of our exploring
  Will be to arrive where we started
  And know the place for the first time.”

  いわゆる「始まり」とは「終わり」のことがしばしばで
  終了することは開始することに他ならない。
  終わりはすなわち出発点…
  ・・・・・
  われわれは探求をやめない
  そしてすべての探求を終わったとき
  もとの出発点に到着し
  その場所を初めて知る。

 今は三月、別れと終了の季節ですが、それはまた新たな出会いと開始を生むことを私たちは経験から知っています。
 さらに、この箇所から、このようなことが導かれるでしょう。
「私たちは どこへ向かって旅をするのか。それは 元いたところへ帰る旅。人生の終わりはそれで終わるのではなく、出発点である天の御国に帰ることである」と。
 森山泰夫の注にはこうありました。
『始まりも終わりもない悠久の神の愛の中で人間は創られ、歴史をいとなみ、そしてその歴史もやがて終わる日(終末)が来る。それも、神の愛に見守られ、その懐に抱かれながら終わるのであって、かくて至福の永遠の日が来る。エリオットは長い探求の旅を経て、救済を確信するに至った。』

 エリオットがこのような精神的・宗教的な深い内容に到達した背景には、どのようなことがあるでしょうか? 彼の人となりや日常生活等についてはこの本が参考になりました。清水書房のセンチュリーブックス、徳永暢三著「T. S. エリオット・人と思想」です。

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 この本の中で、「四つの四重奏曲」についてはこうありました。
『この詩は20世紀英詩の傑作となっていることに疑いを挟むことは難しい。たとえばアメリカの神学者ラインホールド・ニーバーはこの詩を敬虔な気持ちで定期的に読んだと言われる』と。かの「God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, 神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください」で始まるSerenity Prayerで有名なニーバーもこの詩を愛読したのでした。
 この本の「エリオットのキリスト教」の項にはこうありました。
『エリオットは1934年から25年間、ロンドンのグロスター・ロードにある聖スティーヴンズ教会の教区委員を務め、戦争までの時期、この教会の牧師館に下宿し、常にやや牧師めいたライフ・スタイルを保っていたようである』と。
 また、1946年に移り住んだロンドンのチェルシー・エンバンクメント沿いのアパートにおける彼の生活についてこう記されています。
『エリオットの日常生活は、朝6時半にアパートを出て、早朝のミサに出席するためグロスター・ロードの聖スティーヴンズ教会へバスで行き、帰宅してから、たっぷりしたイングリッシュ・ブレックファーストをとり、仕事を始める前に「タイムズ」紙のクロスワード・パズルをし、それから書斎に入る、といったきまりになっていた。』
 エリオットは、「聖灰水曜日(灰の水曜日)」ではいまだ信仰的に揺らいでいた面がありましたが、「四つの四重奏曲」では人生の意義について「神のもとに帰る」という確信に至っているように思いました。その背景には、彼のこのような日々の信仰生活があったのです。

 T. S.エリオットの詩には、彼の日々の信仰生活が反映していました。私たちキリスト者の「人生」という作品も、日々の信仰生活の反映です。私たちも教会生活や日々の祈りを大切にすることにより人生の意義を知り、神様の隠された秘儀に近づき、信仰的な確信を得たいと願うものであります。