オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

主イエス命名の日 聖餐式 『私たちのアイデンティティ』

 本日は2022年の元日です。前橋の教会で「主イエス命名の日」の聖餐式を捧げました。司祭叙階の時のチャジブルを着て、思いを新たにしました。

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 聖書日課出エジプト記34:1-9・ローマの信徒への手紙1:1-7・ルカ
による福音書 2:15-21。説教では、イエス様が「イエス(主は救い)」と命名されたことの意味を考え、私たちがキリスト者、イエス様に従う者として、その「アイデンティティ」を確認し、それに忠実に生きていくよう祈り求めました。イエスという名前で思い浮かぶ「イエスの聖テレサ」の祈りについての定義も紹介しました。

   『私たちのアイデンティティ

 <説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、新年あけましておめでとうございます。元旦、お正月の朝に皆さんとご一緒に礼拝を献げることができ、感謝いたします。
 今日は教会暦では、「主イエス命名の日」という特別の日です。幼子イエス様がお生まれになって8日目に「イエス」と名付けられた日です。「イエス」はギリシャ語では「イエスース」で、これはヘブライ語の「ヨシュア」がギリシャ語化した言葉であり、「主は救い」または「ヤハウェは救いである」という意味です。ユダヤ教の律法では、男児の場合は出産後8日目に割礼を施すことになっており、そのときに「イエス」と名付けられたのでした。
 この日は「受割礼日」という名称で長く守られてきました。しかし新約聖書では、今日のルカによる福音書1:21に『八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である。』とあるように割礼よりも命名が強調されていますので、この前の文語の「59年祈祷書」で「主イエス命名日(受割礼日)」としました。そして、現行の「90年祈祷書」で受割礼日という名称を削除し「主イエス命名の日」という名の祝日になりました。

 今日の聖書についてですが、旧約聖書は、出エジプト記の34章からで主がモーセに御自身の御名を宣言される場面(5,6節)が選択されています。使徒書はローマの信徒への手紙の冒頭で、5節に「その御名を広めて」とありますように、イエス様の名前と宣教の関係等が述べられている箇所です。福音書ルカによる福音書1章15節から21節で、降誕日の聖餐式でも読まれた箇所に21節が加わっているものであり、胎内に宿る前に天使から示された名前「イエス」が幼子に付けられたというルカ版の誕生物語からです。
 本日はこの箇所が私たちに伝えるメッセージについて、ことに21節の主イエス命名の意味等について思い巡らしたいと思います。

 さて、私たちには皆、それぞれ名前があります。私たち一人一人の名前には親たちの思いが込められています。私の名前は「弘二」と言いますが、これは、母の弟の弘(ひろむ)の字を取り、私が次男であるから二をつけ、両親が「弘さんのような人になってほしい」と願ってつけたものです。弘おじさんは高校野球で甲子園に出場し、国立の一期校に入り、卒業後外資系の大企業の会社に入った人です。私の両親は私にそのような人生を送ってほしいと思って「弘二」と名付けたようです。日本では、このように両親や祖父母などが願いを込めて名を付けるのが一般的だと思います。
 ユダヤの人々にとっても、「名前」というのは特別な意味を持っていました。日本でも「名は体を表す」と言いますが、人や物の「名」はその本質を表すものと考えられたのです。例えば創世記で、アダムがあらゆる動物に名をつけるところが出てきますが、それは単に名前をつけるということだけではなく、それぞれの生き物をあらしめる、その存在を定義するということでもありました。本日の旧約聖書出エジプト記でも34:5に「主は雲に包まれて降り、彼と共にそこに立って、主の名によって宣言された。」と書かれています。私たちが祈るときに、「主イエス・キリストのみ名によって」と言うのも、やはり実はイエス・キリストご自身を通じてということを表しています。そして、本日はイエス様がそのお名前の通り「私たちの救い」として、全ての人間の前に宣言されたその日であります。 
 イエス(主は救い)という名はすべての人類に対して向けられているのです。イエス様は、ユダヤの下層の人々の間に人間として生まれ(受肉し)、彼らと同じ生活をし、受け入れ合い、仕え合いました。それが、神様が私たち人間を愛する仕方でした。イエス様は「救い主」としてのご自身の生き方を貫いたことで、ユダヤの指導者から憎まれ、十字架上で磔にされます。しかし、神様はイエス様を復活させられ、イエス様は今も私たちと共におられます。「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」です。それがイエス様の「主は救い」という名前を体した生き方です。言い換えれば、イエス「主は救い」という名前がイエス様のアイデンティティを示しています。アイデンティティとは、一人の人間の個性であり、自分がそのような独自性を持った、ほかならぬ自分であるという自己存在のことです。

 ところで、イエスという名前で思い浮かぶ聖人がいます。それは「イエスの聖テレサ」です。「イエスの聖テレサ」は「アビラの聖テレジア」の名で親しまれている、16世紀、スペインのカルメル会を改革したシスター(修道女)です。テレサスペイン語読みですが、ラテン語名テレジアで聖人が二人いますので、リジューのテレーズを小テレジアと呼び、「アビラの聖テレジア」(イエスの聖テレサ)を大テレジアと呼んでいます。「イエスの」とあるのは、修道名に付ける「玄義」と呼ばれるもので、修道者は生涯その神秘を生きるのです。「イエスの聖テレサ」は女性で4人しかいない教会博士の一人です。
 「イエスの聖テレサ」については、最近出版されたこの本「あなたのために私は生まれた~聖テレサの生涯とことば~」がイラストや短い文で分かりやすく知ることができます。

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 「イエスの聖テレサ」は特に、人となられた神の言(ことば)であるイエス様を伴侶・友として、親しい交わりのうちに生きました。そこに自分のアイデンティティを見いだし、神と人を愛したのです。テレサアイデンティティ、それが祈りでした。
 祈りについて、聖テレサはこう定義しています。受付で取っていただいたB5版の横長の用紙をご覧ください。こうあります。「祈りの定義:祈りとは、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神とただ二人だけでたびたび交わす友情の親密な交換に他なりません。」

「祈りとは神と交わす親密な交換」ということで思い浮かべるのは、今日の福音書の19節の「マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。」です。降誕日にもお話しましたが、ここで「思い巡らす」と訳されたギリシャ語は「シュンバロー」で、この語は、「共に」を意味する「シュン」と「投げる」を意味する「バロー」の合成語です。それは、本来、「共に投げ合う」ことを意味し、誰と投げ合うかと言えば「主と共に」、「イエス様と一緒に」ということです。そう考えると「思い巡らす」とは「主と親密に交換すること」であり、それは端的に言えば「祈り」ということなのだと思います。

 イエス「主は救い」という名前がイエス様のアイデンティティを示しています。私たちも自らのアイデンティティに忠実に生きていきたいと思います。一年の初めにそれを確認しましょう。キリスト者として、イエス様の弟子として、日々祈ること、主と親密に交換していきたいと思います。それこそが私たちのアイデンティティ、私たちが自己を自己としてあらしめるものです。
 皆さん、新しい年の始まりにあたって、イエス様が「イエス(主は救い)」と命名されたことの意味を心に留め、私たちがキリスト者、イエス様に従う者としてその「アイデンティティ」を確認したいと思います。そして、イエス様の模範に従い、受け入れ合い、仕え合う生き方を目指し、これからの信仰生活の中でそうできるよう祈り求めたいと思います。

 最後にお祈りいたします。
 父なる神様、主イエス命名の日、そして一年の始まりの元旦礼拝に、私たちをお招きくださり、ありがとうございます。
 あなたは、独りのみ子をこの世に送り、「主は救い」を表すイエスと名付けられました。私たちは、キリスト者、イエス様に従う者であり、日々、祈りにより主と親密に交換していきたいと思います。それが私たちのアイデンティティです。どうか私たちが、イエス様の模範に従い、受け入れ合い、仕え合うことができるようにしてください。そして、新しい年もあなたの御心に従って生きることができるようお導きください。
 これらの感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン