オーガスチンとマルコの家

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降誕後第1主日聖餐式・クリスマス礼拝(新町) 『クリスマスの意味』

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新町聖マルコ教会にて福音書(聖書協会共同訳)朗読


 本日は降誕後第1主日聖餐式を午前高崎、午後新町の教会で捧げました。新町はクリスマス礼拝として行いました。説教では、ヨハネ福音書冒頭の「ロゴス賛歌」の箇所から「クリスマスの意味」について語りました。当日の入堂聖歌や祈祷書の感謝聖別祷の文言にも言及してテーマに迫りました。新町のみ最後に自由祈祷を入れました。


   『クリスマスの意味』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は降誕後第1主日です。25日のクリスマス(降誕日)後の最初の主日です。降誕節は降誕日(12月25日)から顕現日(1月6日)までのシーズン(期節)を指しています。降誕節最初の主日に「クリスマスの意味」を考えたいと思います。
 今日の福音書ヨハネによる福音書1章1節から18節で、ヨハネ福音書のプロローグ全体が選ばれています。「ロゴス賛歌」と言われる箇所です。
 今日の福音書箇所を解説を加えながら振り返ってみます。

 まず、1・2節です。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
 ここでの「言(ことば)」は一般に使われている言の葉の「言葉」ではありません。新共同訳や古くは文語訳でも漢字一文字の「言」と記されていました。普通の言葉でないことを意識してのことだと思います。この「言(ことば)」の原語のギリシャ語は「ロゴス」です。ロゴスは、物事や思考に秩序を与え、他人との意思疎通の道具となる言葉を表します。ここでの「ロゴス」はイエス・キリストと見なされています。そして、ヨハネは、「言は神であった」と断言しています。イエス様は神なのです。
 次に、3-4節です。
「万物は言によって成った、言によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内に成ったものは命であった。この命は人の光であった。」
 すべての物を造られた神様は、人の命も造られました。すべての命の源は神様にあります。人は、単に肉体が生きるだけでなく、霊的に生きるために造られました。そして、これは神様につながることによって、初めて可能になります。
 5節では「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」とあり、光であるイエス様が暗闇に勝り輝いていることが記されています。このイエス様を信じることによって真に生きることができる、と言えます。  
 6節から8節については洗礼者ヨハネについて記され、9節から11節では、まことの光であるイエス様がこの世に来たのに、この世の人はイエス様を認めなかったことが記されています。
 12節・13節では、イエス様を受け入れる人は、大きな権能(資格)が与えられることが記されています。それは神の子となる資格です。神様が遠く離れた存在ではなく、父のように親しくなることのできる資格です。
 
 14節です。
「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 神の言(ことば)、神の命そのものであるイエス・キリストは、私たちの生きるこの世界、この現実の生活のまっただ中に、私たちと共に生き始められたのです。先ほど入堂の時に歌った聖歌82番の4節の2・3行に「神のみ言 人となり 今日生まれ 世にあらわれぬ」とありますが、これが「クリスマスの意味」です。つまり、「神のみ言であるイエス様が人としてこの世に現れたこと」です。
  
 15節では洗礼者ヨハネがイエス様について証しをし、声を張り上げたことが記されています。ヨハネは、イエス様は自分よりも優れていると主張したのです。
 福音記者ヨハネはさらに、イエス様の恵みについて語っています。16・17節です。
「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」
 彼は、イエス様をモーセと比べて、恵みの上にさらに恵みを与えられたと言っています。イスラエルの民はモーセを通し神様から律法という恵みを与えられましたが、イエス様においてさらに恵みが与えられたのです。このような恵みと真理が、イエス・キリストを通して私たちに現れたこと。これこそ、神様が私たちに与えたクリスマスのメッセージです。
 ヨハネは最後にこう言っています。18節です。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
「いまだかつて、神を見た者はいない。」とヨハネは断言しています。神様は、目に見えない方です。しかし、神様ご自身をそのままの姿でお見せになった方がいます。それが神の独り子であるイエス様です。そのイエス様が言(ことば)としてこの世に現れたのがクリスマスなのであります。 

 ところで、「言葉の内に成ったものは命であった」「言は肉となって、私たちの間に宿った」というイエス様を説明する表現は、聖餐式文の中にもあります。感謝聖別のはじめの方、祈祷書173ページの真ん中当たり、10行目をご覧ください。そこに「み子は、父の生きたみ言です」とあります。み子とはイエス様のことです。「み言(ことば)」が漢字一文字であることをご確認ください。
 これがイエス様の特徴を表しています。イエス様は父なる神の「生きたみ言」なのです。イエス様は私たちと同じ人間の姿を取り、私たちと同じあたたかい命をまとって、私たちの間を行き来する方ということでもあります。
 
 皆さん、神様はイエス様を「言(ことば)」(ロゴス)としてこの世に派遣して下さいました。イエス様という存在の中に、私たちの人生に「癒しや希望を与え、励まし、導き、完成したい」という神様の思いが込められています。イエス様こそ、まさに神の言(ことば)です。神の言は聖書や祈りの中で語られています。私たちは日頃から聖書に親しみ、日々の祈りにより神様と対話していきたいと願います。そうできるよう、この礼拝の中でお祈りいたしましょう。

 <新町>
一言、お祈りいたします。
 「父なる神様、クリスマス礼拝に私たちをお招きくださりありがとうございます。この1年のみ守りに感謝いたします。また、私たちのためにあなたの独り子であるイエス様を生まれさせてくださり、重ねて感謝いたします。
 イエス様はクリスマスの時に、言(ことば)としてこの世に現れました。神の言は聖書や祈りの中で語られますので、私たちは日頃から聖書に親しみ、日々の祈りにより神様と対話していきたいと願います。そうできるようお導きください。
 本日、様々な事情で、この聖餐式に集うことのできなかった人々をあなたが祝福してくださいますように。そして、新町聖マルコ教会に連なるすべての人々にあなたが目を留め、恵みをお与えくださいますようにお祈りいたします。
 これらの感謝と祈りを私たちの主イエス・キリストによって御前にお捧げいたします。アーメン」