オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

降臨節第3主日 聖餐式 『主の来臨を待ち望み、証しをする』

 本日は降臨節第3主日。新町の教会で聖餐式を捧げました(高崎はみ言葉の礼拝)。聖書箇所はテサロニケの信徒への手紙一5:16-28とヨハネによる福音書1:6-8、19-28。説教では、アドベントのこの期節に主を待ち望み、洗礼者ヨハネの使命である「光について証しをする」ことを私たちもできるよう祈り求めました。洗礼者ヨハネのような「キリストの証人」の例としてウイリアムズ主教にも言及しました。

      『主の来臨を待ち望み、証しをする』

 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は降臨節第3主日です。
 降臨節待降節)第3主日は「喜びの主日」と言われてきました。今日の使徒書の冒頭、テサロニケの信徒への手紙一 5章16節にも「いつも喜んでいなさい」とあります。この日は降臨節の半分が過ぎ、節制を守っていた人々がホッと一息つく主日とされてきたようです。

 今日の福音書の内容は、大きく2つの部分からなっています。こんな話です。
 話の前半であるヨハネ1:6-8では、これを書いた福音書記者ヨハネは、洗礼者ヨハネについて、「神から遣わされ、証しのために来た」と述べます。そして、さらに、洗礼者ヨハネは、「光ではなく、光について証しするために来た」ということを強調しています。
 続いて後半(1:19-28)です。ここは、エルサレムユダヤ人たち(当時のファリサイ派の人々)が、突然現れた洗礼者ヨハネに対して、弟子である祭司やレビ人たちをヨハネに送って、「あなたは、どなたですか」と、ヨハネの言わんとするところを聞いてくるように、ということでヨハネがこの弟子の質問について答える部分です。洗礼者ヨハネは「私はメシアではない」「エリヤでもあの預言者でもない」と言い、さらに尋ねられると「私は『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である。」と言いました。すなわち、道を整える者である、ということです。さらに「なぜ、洗礼を授けるのですか」という質問に対してヨハネは、それには直接答えず「私は水で洗礼を授けているが、私の後から来られる方がおり、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない」というような話をしたのでした。

 今日の箇所から特に「証し」について考えたいと思います。 
 洗礼者ヨハネは「光について証しをするため」(1章8節)に来ました。この光は、物理的な光ではなく、救い主であるイエス様であると考えられます。
 「証しをする」は原語のギリシャ語では「マルチュリオー」です。この動詞は「事実や出来事を確証し、証しする」の意味で使います。新約聖書では、証しする内容や対象がイエス様である用例がほとんどですが、その場合、イエス様の生涯に起こった出来事を単純に「証しする」だけではなく、イエス様は誰なのか、その本質はどこにあるのかを「証しする」ことをも含んでいます。
 また、「証し」はキリストの栄光を明らかにすることですから、自らの行いによってキリストを証しすることができます。そのような「証し」はイエス様が誰なのかを「告白する」ことと同じです。そして、それは洗礼者ヨハネだけでなく、私たちキリスト者にも言えることです。キリスト者は神の業を証しし、告白する者なのであります。
 「キリストの証人(あかしびと)」という表現があります。自分の人生、生涯を通して、キリストを証しした人です。
 洗礼者ヨハネは、自身は光であるキリストではなく、光であるキリストを証しするためにこの世に遣わされた人です。彼は、後から来るキリストを指し示した「キリストの証人」であったと言えます。
 
 洗礼者ヨハネのように、自分ではなくキリストを証しした人で、思い浮かぶ人物がいます。それは、私たち日本聖公会の初代主教であるウィリアムズ主教です。
 ウィリアムズ主教は、日本各地にいくつかの教会を立て、また立教大学など複数の学校を創立するなど、日本の宣教と教育の発展に、力を尽くしました。立教大学のチャペルの隣りには彼の銅像があります。

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 ウィリアムズ主教の生き方を表した有名な言葉に「道を伝えて己を伝えず」があります。この立教学院展示館のパンフレットの冒頭にもあります。

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 この言葉はウィリアムズ主教の人生を表した言葉です。日本で伝道した50年間、「道を伝えて己を伝えず」、つまり、キリストの道を伝えて自分を伝えることをしなかった、ウィリアムズ主教のそういう生き方を表した言葉であります。
  ウィリアムズ主教は独身で、謙遜と清貧に生きた「キリストの証人」で多くのエピソードが残されています。
 その一つはこうです。当時、米国聖公会の主教の月給は、現在の価値で約150万円だったそうですが、ウィリアムズ主教は、月約6万円で生活し、残りは全部、教会や学校を立てるために献金したそうです。朝ドラ「エール」で豊橋の教会として登場した、現在明治村にある京都の聖ヨハネ教会も彼の献金で建築されたそうです。
 また、こんなエピソードもあります。神戸から船で横浜に向かっている時、ウィリアムズ主教が、あまりにもみすぼらしい服を着ているので、知人の船長が、「服は裏返すと新しく見えますよ」と教えました。するとウィリアムズ主教は、「この服は既に裏返した後で、また古くなったのです」と答えたそうです。立教にある銅像でもこの一着しかない服を着ていたのです。
 これらのエピソードは、まるで、「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、ばった(以前の訳は「いなご」)と野蜜を食べていた」洗礼者ヨハネのようです。
 私たちもまた、洗礼者ヨハネやウィリアムズ主教のように、キリストを指し示しキリストを証しする役割が与えられているのだと思います。

 さらに、今日の福音書箇所では、特に26節の言葉に注目したいと思います。そこには「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる」とあります。「あなたがた」という言葉は、「私たち」と受け止めてもいいと思います。私たちの知らない方が、私たちたちの知らない間に、すでにおられるというのです。それは救い主(キリスト)はすでに私たちたちの間におられるのだということです。これがクリスマスの出来事につながる大切な言葉であると思います。神様は私たちのために救い主イエス様を派遣してくださった。そのことが私たちに分かるのがクリスマスという時であります。
 
 あと十日あまりでクリスマス(降誕日)を迎えます。私たちも洗礼者ヨハネが指し示す方、救い主であるイエス様を仰ぎ見ましょう。そして、イエス様である光により私たちの内にある闇が照らされることに感謝するとともに、御子が誰であるかを知り、お迎えできるよう、心の備えをしていきたいと思います。
 皆さん、イエス様は私たちの間におられます。主の来臨を待ち望み、それぞれの場で主から光を受けキリストを証しできるよう祈り求めて参りたいと思います。