オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第17主日 『僕となった神の義を信じ仕える』

 今日は聖霊降臨後第17主日。午前は高崎。午後は新町で「聖餐式」の司式・説教をしました。
 聖書個所はフィリピの信徒への手紙2:1-13とマタイによる福音書 21:28-32。

 説教では、福音書の「二人の息子のたとえ」から、「僕となった神の義を信じ方向転換し、主に仕える」ことを宣べ伝えました。徴税人や娼婦たちが信じた神に思いを馳せ、そのことからフィリピ書の「キリスト賛歌」や「十字を切る」所作にも言及しました。

   『僕となった神の義を信じ仕える』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日の福音書の箇所はマタイによる福音書21章28-32節です。マタイ福音書では、21章からイエス様のエルサレムでの活動が始まります。イエス様は神殿から商人を追い出し、境内で、祭司長や民の長老という当時のユダヤ教の指導者たちと権威について論争しました。その中で、イエス様はこの「二人の息子のたとえ話」を用いられました。
 
 今日の福音書の箇所は次のようです。
 二人の息子に父親が「ぶどう園へ行って働きなさい」と言いました。兄は初めは「いやです」と言いましたが、考え直してぶどう園に行きました。弟は口では「お父さん、承知しました」と答えましたが、ぶどう園には行きませんでした。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」とイエス様は祭司長や民の長老たちに尋ね、彼らは「考え直してぶどう園に行った兄の方です」と答えました。その人たちに向かってイエス様は、「はっきり」言われました。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と。続いてイエス様はその理由を話されました。
「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」と。ユダヤ教の指導者たちは洗礼者ヨハネとその教えを信じませんでした。しかし、徴税人や娼婦たちは信じました。ここに違いがあります。さらに、イエス様は指導者たちに「あなたたちは徴税人や娼婦たちがヨハネを信じた様子を見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」とおっしゃったのです。

 洗礼者ヨハネが示した「義の道」とは何のことでしょうか?
 洗礼者ヨハネは荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と教えを宣べ伝えました。イエス様の宣教開始の第一声も「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)でした。「悔い改め」とは回心、神様に立ち帰ることであり、洗礼者ヨハネもイエス様も神様に方向転換することを説きました。「義の道」とはそういうことだと思います。それをユダヤ教の指導者たちは信じず、徴税人や娼婦たちは信じました。だから、「徴税人や娼婦たちの方が先に神の国に入るだろう」と言われるのです。
 
 この「たとえ話」の中の父親は、父なる神様です。そして、ぶどう園は神の国を表していると考えられます。この箇所で神様が示されたこと、そして神様が私たちに求められたのはどのようなことでしょうか? 
 この兄としてたとえられているのは、当時、「律法を守らず、神様の掟を守らない」と非難されていた徴税人や娼婦たち、ユダヤ人から罪人であると見なされている人たちでした。彼らは、一度は「いやです」と言って神様に背く姿勢を見せたかもしれません。しかし、後になって、考え直し、悔い改め、神様を信じ、神様に従う者になりました。これに対して、「承知しました」と答えて、結局、ぶどう園には行こうとしなかった弟とは、祭司長や民の長老たちのことを言っておられます。「自分たちは律法を守っている。自分たちは正しいと自負している」と掟や儀式について厳しいことを言っていますが、本当は、神様の御心に従おうとしないのが、祭司長や民の長老たちでした。

 では、徴税人や娼婦たちが信じた神様とはどのようなお方でしょうか?
 それは本日の使徒書、フィリピの信徒への手紙第2章に示されています。特に6節から11節の「キリスト賛歌」と言われ、古来から礼拝の中で聖歌のように唱えられていた箇所に表れています。6節から8節にこうあります。
『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』
 神であるキリストが自分を無にして天から降り、僕となり人間の姿になり、この地上で十字架の死に至るまで従順に生きられたのです。徴税人や娼婦たちが信じた神様は、そういう神様です。そして神であるキリストは地上で罪人を回心させ救いをもたらせたのです。

 このことで思い浮かぶ事柄、というか、所作があります。それは「十字を切る」という所作です。私は今日の説教の最初でも「父と子と聖霊の御名によって。アーメン」と言って十字を切りました。「十字を切る」意味はご存じですか? いろいろな説がありますが、その一つが今日のテーマと重なっています。
 それはこのようです。「父と子と」と言って上から下に引く縦の線、これは神様が天から地上にキリストとして降りてきたことを表し、「聖霊の御名によって」で左から右に引く横の線、これは地上でキリストが罪人を救いに導くことを表しているというのです。そして「アーメン」で手を真ん中で合わせるのは、キリストが私たちの中心にいることを示しているという説です。
 これらのことは、晴佐久昌英神父のこの本『十字を切る』に詳しく記されています。

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 この本の中で、晴佐久神父は『十字を切って、「私は今、神の愛の中に入る」「私は神と一つである」ことを受け入れ、信じ、救われます』(P.13)と言っています。「十字を切る」所作の意味を知り、心を込めて十字を切りたいと思います。

  今日の福音書で、兄は初めは神様に背く姿勢を示しましたが、考え直して神様に従い神様と共に生きました。弟は口では「承知しました」と答えましたが、神様の方を向くことをせず神様の御心に従いませんでした。
 神様はこの兄のように、一度は「いやです」と拒否したとしても、後で考え直して神様に従い神様と共に生きることを、私たちに求めておられます。その神様は、自分を無にして天から降り、僕となり人間の姿になり、この地上で十字架の死に至るまで従順に生きられた方です。そして神であるキリストは、地上で罪人を回心させ救いをもたらしたのです。
 
 皆さん、私たちは、日々の生活の中で、また十字を切るごとに、その神様の義に思いを馳せ、自らを振り返り、神様の方へ方向転換し、考え直していきたいと願います。すべてを神様に委ね信頼するとき平安が与えられます。本日の特祷のように、「穏やかな心を持って主に仕え」ることができるよう祈り求めて参りたいと思います。