オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「内村鑑三と特別支援教育」

 日本人で最初に知的障害児・者の施設で働いた人は誰だかご存じですか?
 それは内村鑑三です。内村は、1885年、アメリカ留学中のアマースト大学に入る前に、ペンシルバニア州立白痴院(当時の名称のまま)の看護人として8ヶ月働きました。この施設はトレーニング等も含む、今日の特別支援学校のような役割も果たしていたようです。今から135年前のことです。その様子は帰国後に「国民の友」に書かれた「流鼠録」に詳しく記されました。
 私は教文館から発行された「内村鑑三信仰著作全集」の第2巻で読みました。ちょうど私にとって通常の学校から特別支援学校(当時は養護学校)に移ったばかりの頃であり、その文章は大きなインパクトを与えました。

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 その「流鼠録」には次のようなことが記されていました。恩人の紹介でその施設で働き始めた内村ですが、障害児・者の食事、入浴はもちろん、糞尿の始末もしました。さらに「ジャップ」という罵声の中で仕事をしなければなりませんでした。一高の秀才で札幌農学校(今の北大)を主席で卒業し官吏として働いていた内村にとっては、そのような仕事をするわが身を嘆いたのは想像に難くありません。
 そうした状況を変えるきっかけになった出来事がありました。それはこのようでした(現代文に直しています)。
『ある日曜日、内村は当直でした。30名余りの看護が終日彼に託されました。この日、ダニーという少年が言うことをきかず、それが全級に及んで終日混乱を極めました。内村は憤慨し、ダニーを近くの林の中で鞭打とうと思うほどでした。しかしこの日は安息日で、怒るべき日ではありません。そこで内村は混乱の責任を自分自身で引受け、断食を一回行うことを決心しました。そこで全級に告げました。「今日のダニーの行いは厳罰を加えるに値する。しかし今日は安息日だ。私は彼を罰するに忍びない。だから私は彼のために今夕の食事を断ってダニーを許そう」と。誰一人その言葉を信ずる者はいません。ところがコックが内村が食事をしないのに気づいて、「病気のため食べないのか」と問いただしました。内村は断食の理由を述べました。すると院長がそれを耳にして、料理を調えて内村の部屋にきて食事を勧めました。しかし、内村は固辞して受けず、夕飯なしで床につきました。
 翌朝、このことが院内で評判となり、ダニーはその確認のために密かに内村を訪れました。一方、他の者は会議を開き、自分たちの組からダニーを追放することを決定し、院長にその旨、報告しました。それを聞いた院長は了解し、ダニーを下級に落とし、1回の絶食を命じました。それ以来、内村と入所者との関係は非常に良好となり、「ジャップ」と罵られることもなくなりました。また、ダニーも「大変申し訳なかった」と言って、内村の部屋を念入りに掃除しに来るようになり、親密な仲になりました。』

 こうした出来事を通じて、教育の本質等を内村は学びました。その学びは特別支援教育に入ったばかりの私に大きな影響を与えました。
 特別支援教育で大切にすべきものを、既に内村は把握していました。当時の私はそれが記された「流竄録」のあるページをコピーし、赤鉛筆でマークしました。特別支援教育に携わり始めた私は、その紙を職員室の自分の机の透明なデスクマットの下に置き、仕事しながら見たり、授業に行く前に確認したりしていました。

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 それはこのような言葉でした。
「白痴教育の要は、周囲の活動と快楽とにより、彼らのうちに睡眠しおる精神を喚起するにあり。・・・簡易なる手仕事あり。次序的機械運動あり。兵式体操あり。音楽あり。智能発達の程度にしたがい各々その特効あり。」(①)
「白痴教育は余に教育の原理を教えたり。・・・すなわち教育の精神とは、真実と耐忍と勉励とをもって、体中に秘蔵せられおる心霊を開発するにあり。」(②)
「教育の秘訣は至誠にあり。・・・法令によるにあらず、学則によるにあらず、権威によるにあらずして、これに従事するものの至誠赤実にあるなり。」(③)

 現代の教育、特に特別支援教育に置き換えればこのように言えると思います。①特別支援教育で大事なことは、児童生徒の可能性(潜在能力)を最大限に引き出すことである。作業でも運動でも音楽でも、それぞれに応じてその子に応じて支援する。②特別支援教育は教育の原点であるということ。それは真実を持って辛抱強く励まして、隠されている魂や精神を養うものである。③教育の秘訣は「まごころ」であること。児童生徒への支援、または保護者への対応等は、誠意真心を持って行う。
 特別支援教育、また障害者への支援において重要なことを、130年以上前に内村鑑三は示唆していたのです。

 「流竄録」に示された教育の本質や特別支援教育で大切にしなければならない精神を、内村は入所者とのかかわりや施設の創立者J・B・リチャーズの講話等から学んだと考えられます。「リチャーズからは、内村の携わっている仕事が、子供たちの心霊の開発という天の父から与えられた聖なる仕事の一つであり、また可能であることを教えられた」(鈴木範久著「内村鑑三」P.29から)とのことです。

 内村が当時白痴と言われた重度知的障害児・者の看護人としてケアをしていたとき、以下の聖句を心に留めていたのではないかと私は想像します。
『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイによる福音書25:40)
 最後の審判における王であるキリストが天国に入る基準を示している箇所の聖句ですが、目の前のこの最も小さい者、障害児・者はイエス様であり、この子らにするのはイエス様にすることなのだと内村は思ったのではないでしょうか?

 内村がアメリカ留学の最初に知的障害児・者の施設に看護人として働いた経験は、この後の神学の学びに影響を与え、さらには帰国後の非戦論や足尾鉱毒事件反対運動等へとつながっていったと考えます。内村がキリスト者として、またキリスト教指導者として生きる上でのベースに、ペンシルバニア州立白痴院での8ヶ月があったと私は思い巡らします。
 私にとっても特別支援学校で働いた経験は、その後の神学校での学びや、現在、司祭として生きる姿勢にも影響を与えています。 
 皆さんにも、過去の経験が現在の生き方に影響を与えている、そのようなことがあったのではないでしょうか?