「内村鑑三と上州人」
上毛かるたに「心の灯台」と読まれている内村鑑三。彼は高崎藩士の子として江戸藩邸で生まれ、5歳から8歳、10歳から12歳にかけての幼少期を高崎で過ごしました。彼は群馬(上州)や群馬県人(上州人)についてどう思っていたのでしょうか? 今回はそのことを中心に思い巡らしたいと思います。
先日、高崎市役所地下の駐車場に車を止めて、高崎公園わきの頼政神社に行きました。その境内には内村鑑三記念碑があります。神社の中にキリスト者の碑があるのは珍しいと思います。頼政神社は高崎藩主であった大河内氏の遠祖・源頼政を祀ったものであり、ここは内村が幼い頃に魚を捕り札幌農学校での水産学専攻につながった地であることから、1961(昭和36)年の生誕百年に内村を敬慕する人々がこの神社の境内に記念碑建立を望んだとのことです。
記念碑は十字架の形になっていて、中央の黒御影石に死の一カ月前に病床を見舞った親友の住谷天来牧師に贈った「上州人」の漢詩が、その上の白御影石には彼の墓碑銘にある英文の「2つのJ」が刻まれています。
「上州人」の漢詩はこうです。
上州無智亦無才
剛毅木訥易被欺
唯以正直接萬人
至誠依神期勝利
現代文にしてみます。
上州人は無智にして無才であり
意志が強く純朴で飾りけがなくだまされやすい
ただひたすら正直にすべての人に接し
まごころを尽くして神による勝利(恩恵)を待っている
晩年の1928(昭和3)年10月、若松町の光明寺に先祖の墓参りをした内村は、日記に「噫我も亦上州人である」と記していますが、この詩の上州人は彼自身でもあったのです。
また、内村は8歳で明治維新を迎え、青年時代にはまだ日本という国家の形が定まっておらず、この時代の多くの青年と同様に、国家の在り方を考えることと自分の在り方を考えることは同義と言えました。
札幌農学校卒業の若き日、新渡戸稲造らと生涯を二つのJ(Japan日本、 Jesusイエス)に捧げることを誓い合い、米国アーモスト大学留学中に聖書の見開きに記した自身の墓碑銘「2つのJ」が黒御影石の漢詩「上州人」の上にこう刻まれています。
I for Japan;
Japan for the World;
The World for Christ;
And All for God.
訳します。
「私は日本のため、
日本は世界のため、
世界はキリストのため、
すべては神のため」
「2つのJ」は孫文の「2つのC(China中国、Christキリスト)」に倣ったものかもしれません。ちなみに、中国の辛亥革命を指導した孫文、その後を継いだ蒋介石、共にキリスト者でした。
私は漢詩「上州人」の上に「2つのJ」の墓碑銘があることに意味があるように思います。つまり「上州人」の基礎の上に「2つのJ」があるということです。
そのことでは、1925(大正14)年10月10日発行の「聖書之研究」303号の「私は上州人である」の文における下記の部分から示唆を得ました。
『私は上州人である。故に腹の中にあることを隠すことが出来ない。上州人に秘密はない。秘密は有り得ない。その点において上州人は他の日本人、殊に中国人などとは全く違う。しかし私の場合において、私は上州人である上にキリスト信者である。ゆえにキリスト信者としての深い信仰上の経験を有する。(中略)上州人は日本人の中で最も劣等な者である。ところが神の恩恵によって、私は少し、神の深い事を知ることが出来て、感謝である。』
内村は上州人であり、隠し事が出来ません。しかし、その上にキリスト信者であり、信仰上の経験を有するのです。言葉を換えれば、私(上州人)は最も劣等な者であるが、神の恩恵により神の御心を知ることが出来、感謝するというのです。
私も上州人であり、無智であり隠し事が出来ません。しかしその上にキリスト者です。それゆえ神の御心により神の恩恵を知ることが出来るのであります。
私も「上州人」の漢詩にあるように、「ただひたすら正直にすべての人に接し まごころを尽くして神による恩恵を待っている」と言えます。
これらのことを総合して考えますと、内村鑑三は「2つのJ」だけでなく、もう一つのJ(Joshu上州)への思いがあり、「3つのJ(Japan日本、 Jesusイエス、Joshu上州)」を自身のアイデンティティとしたのではないかと思いました。そしてそれは私自身のアイデンティティでもあり、多くの群馬県のキリスト者共通の思いと言えるかもしれないと思いました。