オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第15主日 主教巡回聖餐式(新町)・み言葉の礼拝(高崎)『神の憐れみに応え人を赦す』

 今日は聖霊降臨後第15主日。新町は主教様が巡回され、「聖餐式」の司式・説教をされました。聖書個所は、ローマの信徒への手紙14:5-12とマタイによる福音書18:21-35。福田は補式をしました。

 

f:id:markoji:20200913162425j:plain

 礼拝後短く交わりの時を持ち、記念写真を撮りました。

f:id:markoji:20200913162521j:plain

 高崎は「み言葉の礼拝」で、秋吉兄が司式・説教代読をされました。
 私の説教原稿では、「仲間を赦さない家来のたとえ」から、1万タラントン・「憐れに思って」・100デナリオンという3つ言葉に注目し、神様が私たちを憐れみ赦していることに応え、神様に寄り頼み人を愛し赦すことができるよう祈り求めました。神様が私たちを多く赦してくださっているということで、思い浮かべる星野富弘さんの「もっと許そう」という詩画についても言及しました。

   『神の憐れみに応え人を赦す』

  <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 今日の福音書の箇所は、マタイによる福音書18章21節から35節です。このような話です。
 自分に対して罪を犯した者を「何回赦すべきでしょうか。」というペトロの質問に対してイエス様は「7の70倍までも赦しなさい」、つまり「どこまでも赦しなさい」と教えられ、「天の国のたとえ」として「仲間を赦さない家来のたとえ」を語られました。
 ある王が、その家来たちに貸した金の決済をしようとしました。そのとき、1万タラントンの借金を王に対して負った家来が連れてこられました。そして、自分も家族も財産も全部売って、借金を返すようにと命じられます。彼はひれ伏しつつ願います。『どうか待ってください。きっと全部お返しします』。しかし、彼にそれができるわけはありません。1万とは当時数えられる限りの最高の数を意味し、タラントンも金額として考えうる最高の額でした。しかし、なんと主君は、彼を憐れに思い、彼を赦し借金を帳消しにしてやったのです。ところが、彼は出て行き、100デナリオン、ざっと今の100万円ほど、自分に借金のある仲間に会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言いました。仲間がひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼むのを聞かず、彼を借金を払うまでと牢獄に入れたのです。この一部始終を見ていた仲間たちは、非常に心を痛め、主君のもとに行って一切を残らず告げました。主君は、この家来を呼び出して、『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と言って、牢役人へと彼を引き渡したのです。
 イエス様は、このようなたとえをペトロに話して、『あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。』と言われました。

 このような「たとえ話」です。
 ここに出てくる「王」、あるいは「主君」は、天の父なる神様であり、そして王である主君に一万タラントンの借金がある「家来」は、実に私たちのことであると考えられます。

 ここで注目したい言葉が3つあります。それは1万タラントンと「憐れに思って」と100デナリオンです。1つずつ見ていきたいと思います。

 まず、1万タラントンです。
  1タラントンは6000デナリオンです。1デナリオンは労働者の1日の賃金だったと言われます。分かりやすく1デナリオンを1万円すると(今は不況でもっと低いかもしれませんが)、1タラントンは6000万円となります。1万タラントンはその1万倍ですから、6000億円ということになります。そのような多額な借金を家来は主君からしていたのです。そしてそれは、神様から多額の借金(罪)を私たち人間が負っているということでもあります。

 続いて「憐れに思って」です。ギリシア語では「スプランクニゾマイ」です。それは「目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられてしまう」という深い共感を表す言葉です。「はらわた痛み」とでも言うのでしょうか。ひれ伏ししきりに「待ってください」と願う家来(つまり我々人間)を見て、家来との関わりを大切に思い、はらわた痛み、赦し、6000億円という多額な借金を帳消しにしてくださる、父である神様とはそのような方だとイエス様は語るのです。

 最後に100デナリオンです。先ほどもお話ししましたように、1デナリオンは労働者の1日の賃金だったと言われます。分かりやすく1デナリオンを1万円とすると、100デナリオンは100万円となります。少額ではありませんが、庶民でも有りうる金額です。
    
 1万タラントン(6000億円)の借金を帳消しにしてもらったのに、自分が貸した100デナリオン(100万円)は赦せない。これが私たち人間の姿なのだと思います。その人間に対して、神様は私たちを憐れに思い(はらわた痛み)、多額の借金を帳消しにするほど愛してくださっていることに心を留めたいと思います。

 神様が私たちの多額な借金を免除してくださる、つまり多く赦してくださっているということで、思い浮かべる詩というか詩画があります。それは星野富弘さんの「もっと許そう」という詩画です。『いのちより大切なもの』という本の中にあります。こんな詩画です。

f:id:markoji:20200913162654j:plain


「もっと許そう(メランポジューム)」   

     許すということを知ったら
     重かった悲しみが
     少し軽くなった

     もっともっと許そう
     私だって
     数え切れないほど
     たくさん
     許されているんだもの
                
 私たちが人を許す原点、それは神様が私たちを「はらわた痛む」ほど愛し、数え切れないほど赦しておられることなのです。
 それなのに、私たちは皆、人の罪を責め「絶対に赦せない」と言ってしまいがちであり、その時には、神様によってとてつもなく大きな借金、罪を赦していただいていることを忘れてしまっているのであります。

 今日の福音書のイエス様の結びの言葉は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」です。この言葉から「主の祈り」の一節を思い起こします。それは、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」です。
 私たちは、神様から、多くのことを赦してもらっています。けれども人を赦すことは難しいものです。主の祈りを唱えるたびに、赦されていることを感謝し、人を赦す力を願いたいと思います。

 皆さん、神様は私たちを「はらわた痛む」ほど愛し赦してくださっています。そのことを心に刻み、一心に祈るとき、私たちも神様の思いに応え、自分の身近な一人一人を愛し赦す気持ちが生まれてきます。そうできるよう、日々神様に寄り頼み、聖霊による導きを祈り求めて参りたいと思います。