オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「上毛かるたとキリスト教」

 先主日の説教では「十字架を背負うこと」をキーワードに考察し、「神のことを思う」よう勧め、上毛かるた内村鑑三の絵札に十字架があることから、彼の人生と「心の灯台内村鑑三」とかるたの札に読まれている意味についても思い巡らしました。
 皆さんは「上毛かるた」はご存知ですか? 

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 上毛かるた群馬県人によく知られ、子供の頃には誰も慣れ親しんだ1947(昭和22)年に発行された「郷土のかるた」です。上毛かるたを買うと、箱の中に「上毛かるたの遊び方」という説明書が入っていて、ルールなどについて言及しています。その最初にある「競技の心がけ」にはこうあります。
『この「かるた」は、私達が楽しく遊びながら、私たちの郷土である群馬県の歴史上有名な人物や、重要な産物、代表的な都市や、山と川、温泉等を正しく理解し、知らず知らずのうちに、郷土への知識を深め、郷土への愛情を高めていきたいと考えて、作ったものです。』
 このように「上毛かるた」は群馬県の名所旧跡や輩出した人を札としており、ある種の教育目的で制作されたと言えます。 
 ところで、このかるたでは9人の偉人が紹介されていますが、そのうち2人がキリスト者です。前述の内村鑑三新島襄です。公立学校で活用されることが予想される「上毛かるた」で2人もキリスト者が入っているのはなぜでしょうか? 今回はそのことについて思い巡らしたいと思います。
                                             
 上毛かるたはどのようにできたのでしょうか?     
 そのことについては群馬県が出した本『「上毛かるた」で見つける群馬のすがた』等にはこのようにありました。

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『1946(昭和21)年、浦野匡彦(旧財団法人群馬文化協会初代理事長)は満州から故郷・群馬へ引き揚げ、恩賜財団同胞援護会県支部を取り仕切り、戦争犠牲者の支援に取り組んでいました。敗戦後の世情は混乱し、戦争孤児や寡婦などの境遇は悲惨なものでした。また、GHQの指令により、学校教育での地理・歴史の授業は停止されていました。その為、人一倍郷土を愛し誇りに思っていた浦野は、群馬の子供たちには愛すべき故郷の歴史、文化を伝えたいという思いを募らせていきました。そんな中、1946(昭和21)年7月15日に前橋で開かれた引揚者大会で、浦野は安中出身で柏木義円から洗礼を受けた須田清基牧師と出会い、須田から「台湾いろはかるた」を作った話を聞き、群馬の歴史、文化を伝えるかるたを作りたいと思いました。
 そして、1947(昭和22)年1月11日の上毛新聞紙上で構想を発表し、県内各方面から題材を募りました。郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会が44の句を選び、その年内に初版12,000組が発売されました。』
 浦野匡彦や須田清基たちは敗戦でうちひしがれた群馬の人々を魂の荒廃から救い、かるたという遊びを通して、次代を担う子供たちに郷土の素晴らしさ知らせ、郷土愛を育みたいと考えたのだと思います。

 上毛かるたの編纂委員で、「平和の使徒 新島襄」と「心の灯台 内村鑑三」の2枚のキリスト者札の採用に力を尽くした須田清基とはどのような人物でしょうか?
「20世紀日本人名事典」(日外アソシエーツ)にはこうありました。
『生年:明治27(1894)年8月21日 没年:昭和56(1981)年2月20日 
 出生地:群馬県安中市
 経歴:大正3年受洗、入営、除隊後、救世軍士官学校を経て台北神学校に学んだ。教派から自立した伝道を始め、トルストイの影響を受け軍隊手牒を焼いた。12年13カ条の軍籍離脱届を陸軍大臣に送ったが受け付けられず、当局の監視付きとなった。13年台湾に帰り、結婚、伝道を続け、神社参拝を拒否。戦後、安中に引き揚げ紙芝居で全国を伝道。昭和3年「唯一の神イエス」を刊行、真イエス会長老と称した。著書は他に「聖霊を受くる途」「隠れたる教育者」など。』
 須田清基は、今でいう良心的兵役拒否者で非戦論者だったことが伺えます。そこから内村鑑三の思想に傾倒し、新島襄の札に「平和」の文言を入れたことは想像に難くありません。私は、須田が戦後紙芝居で全国を伝道したことに注目します。伝道、宣教への意欲は人一倍あったと思います。2人の郷土の著名なキリスト者を、かるたの9人の偉人の中に滑り込ませ、宣教を意図したのではないでしょうか? 
 群馬では、公立小学校で2人のキリスト者の札を読むことが日常化されています。どんなことをした人か知らなくても、群馬県人には内村鑑三新島襄キリスト教の偉人であると認識されています。それによって「キリスト教は悪い教えではない、学校でも社会でも認められている」という意識が群馬県人にはあると思います。その背景には、群馬県が明治20年頃には全国5位の信者数を誇った時代があり、今も多くの教会が小さな町にまであるという状況があると考えます。キリスト教が盛んだった背景には、生糸産業による横浜を通じた外国との関係等があったようです。
 私自身に関しても、小学校低学年から「平和の使徒 新島襄」と「心の灯台 内村鑑三」と意味も分からず唱えていましたが、キリスト教に対して何となく良いイメージがあり、大学を選ぶときにキリスト教主義の学校を選択肢としたのかもしれません。その結果、大学でキリスト教に触れ、卒業後3年して教会に通い始め受洗しました。もしかしたら須田清基の宣教の思いが結実した例と言えるかもしれません。私のような人は他にもいるのではないでしょうか?