オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「唱歌・童謡とキリスト教(2)」

 前回、このテーマで「日本の唱歌は最初からキリスト教と深いかかわりがあった」と記しましたが、追加したいことがあります。
 それは尋常小学唱歌が1911(明治44)年から文部省により編纂されますが、その編纂(作曲)委員6名のうち4名がキリスト者またはキリスト教に親しんでいた者であったという事実です。その委員とは島崎赤太郎(主任)、岡野貞一、小山作之助、楠美恩三郎、上眞行、南能衛です。
 島崎赤太郎は12歳で受洗し、ドイツ留学から帰国し主任に任命されました。後に立教の校歌『栄光の立教』を作曲しました。岡野貞一は前回記しましたように14歳で受洗し、42年間本郷中央教会のオルガニストでした。小山作之助は築地大学(現在の明治学院大学)、楠美恩三郎は青森の東奥義塾で学びました。
 作曲委員の合議で尋常小学唱歌が作られましたが、委員6名中4名がキリスト者やミッションスクールで学んだ者ですので、聖歌・賛美歌の影響を受けるのは当然と言えます。このあたりのことは安田寛著『唱歌と十字架 明治音楽事始め』や次の『「唱歌」という奇跡 十二の物語~讃美歌と近代化の間で」に詳しく記されています。

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 この本は、唱歌と讃美歌とのかかわりを解き明かし、「むすんでひらいて」「蛍の光」「蝶々」「さくらさくら」など、12の愛唱歌に秘められた歴史のミステリーが綴られています。
 この本の12番目に取り上げられた歌が童謡「シャボン玉」であり、讃美歌「主われを愛す」との共通性等について記されています。
 今回は童謡とキリスト教について、特に童謡「シャボン玉」と讃美歌「主われを愛す」の関係にスポットを当てて思い巡らしたいと思います。
 
 朝ドラ「エール」でも少し触れていましたが、1918(大正7)年「赤い鳥」の創刊とともに童謡は誕生しました。そこでは官制の唱歌を批判し、「芸術として真価ある純麗な童話と童謡」が必要だと訴えています。そして、童謡を書いた層は広く、詩人では北原白秋西條八十、野口雨情、三木露風など、作曲は成田為三、弘田龍太郎、中山晋平本居長世山田耕筰などによって、子供のための芸術性ある歌が作られました。
 一方、聖歌・讃美歌は、日本が開国し、宣教師たちが次々と来日し、1873(明治6)年にキリシタン禁制の高札が廃止されますが、その前年1872(明治5)年に2曲の聖歌・讃美歌が最初に日本語に訳されました。それが「主われを愛す(聖歌498・讃美歌461)」と「あまつみくに(古今531・讃美歌490)」でした。その後次々に讃美歌が日本語訳され、また日本オリジナルの聖歌・讃美歌が作られていきます。この最初の2曲は今日まで歌い継がれていますが、特に「主われを愛す」は日曜学校やキリスト教主義の幼稚園等でも歌われ、今日まで親しまれています。私がチャプレンをしている幼稚園(認定こども園)でも毎月の誕生会で「いつくしみ深き」と共に毎回歌っています。

 童謡「シャボン玉」と讃美歌「主われを愛す」は以前からよく似ていると言われていました。
  「シャボン玉」は、野口雨情作詞・中山晋平作曲。童謡としては1923(大正12)年に中山晋平の譜面集「童謡小曲」に発表されましたが、 詩自体が最初に発表されたのは1922(大正11)年のことです。
 『シャボン玉』の歌詞はこうです。
「1シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
  屋根まで飛んで こわれて消えた
 2シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
  産まれてすぐに こわれて消えた
  風、風、吹くな シャボン玉飛ばそ」

 『主われを愛す』の歌詞はこうです。
「1主われを愛す 主は強ければ
  われ弱くとも 恐れはあらじ
  (くりかえし) わが主イェス わが主イェス
  わが主イェス われを愛す
 2わが罪のため さかえをすてて
  天(あめ)よりくだり 十字架につけり 
     (くりかえし)
 3みくにの門(かど)を ひらきてわれを
  招きまたえり いさみて昇らん 
   (くりかえし)
 4わが君(きみ)イェスよ われをきよめて
  よきはたらきを なさしめたまえ 
   (くりかえし)」


 『シャボン玉』の「こわれて消えた」が『主われを愛す』の「恐れはあらじ」とメロディーが全く同じです。ミーター(音韻)も、どちらも7777で共通しています。
 作曲の中山晋平は前述の本郷中央教会に出入りしていましたし、作詞の野口雨情も内村鑑三の「月曜講演」を聞き、内村の執筆していた「東京独立雑誌」を読んでいたからでしょうか。
 また、「主われを愛す」は1893(明治26)年に「子供よ子供 この広庭で」という歌詞に代えられ、小学唱歌に入れられ、多くの日本人に親しまれていたこともあるかもしれません。その辺りのことは、大塚野百合著『「主われを愛す」ものがたり』に記されています。

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 この本の中で「主われを愛す」の作詞家や作曲家についてこのように記されています。
『「主われを愛す」の作者はアンナ・ウォーナー、米国人女性です。彼女の家は裕福でしたが、1837年の経済恐慌で瞬く間に貧困状況に立たされてしまいました。そのような時、叔母の薦めで姉のスーザンと共に小説を書くようになり、それが売れて一家を支えるようになりました。そうして、その小説の中にアンナが「私たちは主イエスに会いたい(We would see Jesus)」という賛美歌を挿入しました。それは彼女の魂の叫びでした。二人の姉妹は明確な回心をし、変わりました。前述の賛美歌制作の8年後、「主われを愛す」を書きました。それは日曜学校の教師であったジョン・リンデンが、重い病気に苦しんでいる少年を両腕で抱きかかえて静かに歌う歌でした。
 そして、ウィリアム・ブラッドリーという人がこのアンナの「主われを愛す」の歌詞に出会って、作曲し、折り返しを書いて、賛美歌にしたので、これが今日まで愛され、歌われているのです。』

 ところで、「シャボン玉」と「主われを愛す」が似ているのはメロディーだけではありませんでした。野口雨情は、1908(明治41)年に長女みどりを生まれてすぐに亡くすという体験をしています。幼い命への切ない想いが「シャボン玉」の歌詞に込められていると言われていますが、「主われを愛す」の原詩も若くして亡くなった少年の話であり、「消えゆく幼き命への祈り」という点が共通していると言えるのです。
 前述した安田寛著『「唱歌」という奇跡 十二の物語~讃美歌と近代化の間で」にはこうあります。
『童謡「シャボン玉」と讃美歌「主われを愛す」の類似は他人の空似などではけっしてなく、「シャボン玉」は「主われを愛す」の生まれ変わりであるといわざるを得ない。』

 しかし、「主われを愛す」にあって「シャボン玉」にないものがあります。「シャボン玉」は「屋根まで飛んで こわれて消えた」り「産まれてすぐに こわれて消えた」りして、はかなくなくなってしまいます。
 それに対して「主われを愛す」は主に愛されているという確信があります。特に3節では「御国の門を 開きてわれを 招き給えり 勇みて昇らん」となっています。前述した大塚野百合著『「主われを愛す」ものがたり』にこの英語の直訳があります。それはこうです。
「イエスは私を愛しておられる!主はいつも私のそばに寄り添ってくださる。私が主を愛すると、私が死ぬとき、主は私を天のふるさとに、つれていってくださる。」
 これは天のふるさとに入れる信仰、確信への賛美であり、大いなる福音(良い知らせ)です。讃美歌「主われを愛す」が今も日本で、そして世界中で愛唱されているのはこのゆえかもしれません。私たちは天のふるさとを信じて、望み、主を愛して、この聖歌・讃美歌を歌いながら、人生の旅路を歩んでいきたいと願います。