オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第14主日 聖餐式『兄弟の中にいるイエス様と神の思いに従う』

 今日は聖霊降臨後第14主日。高崎で聖餐式を捧げました。
聖書個所は、エゼキエル書  33:7-11とマタイによる福音書 18:15-20。説教では、兄弟への忠告と共に祈ることの根本に、イエス様が共におられることと小さな者が一人も滅びないよう願う神の思いがあることを語りました。その具体例で、神学生の時の「かなの家」の実習での経験にも言及しました。

      『兄弟の中にいるイエス様と神の思いに従う』

 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日の福音書はマタイによる福音書18:15-20です。
 マタイ福音書18章は「教会の章」と言われ、教会共同体のあり方の箇所と考えられています。1-5節では子どもを受け入れること、6-9節では小さい者をつまずかせないことが語られます。一貫しているのは、共同体の中の弱いメンバーに対する配慮を欠かさないということです。今日の箇所は10-14節の「迷い出た羊」のたとえの続きで、特にその最後の14節の御言葉「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」の後に語られていることを押さえたいと思います。

 今日の箇所は大きく3つの部分に分かれます。①は15節から17節、②は18節から19節、③が20節です。
 まず15節でイエス様は弟子たちにおっしゃいます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」と。
 ここでは、兄弟(同じ父なる神の子である教会共同体の仲間)が罪を犯したなら、報復するのでも、見過ごしにするのでもなく、忠告をするよう命じられています。「兄弟を得る」ために、「小さな者」を心にかける神様の思いを知らせることが、ここで求められている忠告です。
 しかし、忠告を聞かない者もいます。その場合にも、「兄弟を得る」ために忠告しなければなりません。「忠告する」と訳した語は「光にさらす」を意味します。忠告とは、小さな者の滅びを望まない神の光にさらし、神の思いへと向けさせることです。一人で忠告しても聞かないなら、「二人か三人」で忠告し、それでも聞かないなら、「教会」に言いなさいとイエス様は命じておられます。教会にも聞き従わないなら、最後はイエス様が裁きを行います。その人は「異邦人や徴税人」と同様と見なされます。ここは一見すると差別的なニュアンスを感じますが、それはイエス様の本意ではないと思います。イエス様は異邦人や徴税人に対してどうされたでしょうか? イエス様は彼ら差別されてきた人々と食事を共にし、徹底的に寄り添われました。イエス様が「異邦人や徴税人」にされたことと同様に彼らに寄り添うことが求めておられると私は思います。  
 ここまでが①です。そして、これからが②です。
 「あなたがた」は「地」の上にあって、「天」の父と結びついています。教会が下す判断は天の父の判断を表します。19節にこうあります。
『また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。』
 あなたがたのうちの二人が願うことは何でも実現しますが、それを起こすのは「天の父」です。天の父がそうされるのは、複数の仲間が心を一つにして祈るからです。
 ③の20節はこうです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 ギリシャ語原文では冒頭に「なぜなら」という言葉(「ガル」)が入っています。英語の聖書でも「For(なぜなら)」が冒頭にありました。これはこれまでの15節から19節のすべてを受けての理由文と考えられます。
 罪を犯した兄弟への忠告は、兄弟を神の国に得るために行われますが、それはその中にイエス様が共におられるがゆえにできることなのです。
 同様に、天の父が願いをかなえて下さるのは、複数の信徒仲間がイエス様によって集められて祈り、その中にイエス様がおられるからなのであります。
 この「わたしもその中にいる」というイエス様の言葉はマタイ福音書の主要テーマであり、それはイエス様が「インマヌエル(神は我々と共におられる)」(1:23、28:20)と呼ばれる存在であるということです。

 今日の箇所では兄弟への忠告と、複数の仲間が共に祈ることの重要性が語られました。そして、その根本には神様が、イエス様が我々と共におられるということがありました。このことで、思い浮かぶ私自身の体験があります。それは今から4年前の2016年8月、神学校の2年の時、静岡の「ラルシュかなの家」の実習でのことです。「ラルシュかなの家」は知的障害のある「なかま」とスタッフである「アシスタント」が共に暮らす共同体(コミュニティ)です。私はそこで3週間、なかまの人やアシスタントと寝食を共にしました。
 実習が始まり2週目の8月9日(火)、午前中はミュージック・ケア、午後は緩衝クッションの内職をした時のことです。内職の時、Uさんという軽度知的障害の女性が初めて参加し何をしていいか戸惑っている様子があったので、私は「袋に入れる仕事をしてみたら」と話し、見本を示しました。すると、Yさんというアシスタントに「福田さん、ちょっと」と部屋の隅に呼ばれて「福田さんは体験で来ているので、指導しなくて大丈夫です」と忠告されたのでした。自分としては指導しないように努めていたつもりでしたが、午前中のミュージック・ケアで教師然とした意識が蘇ってしまったのかもしれません。ラルシュは「知的障害のある人の素晴らしさから私たちが学ぼう」という理念で運営されているコミュニティで、私はその精神を学ぶために来ていたのでした。なまじ特別支援教育の経験があるため、その経験で判断してしまいました。今思えば、アシスタントのYさんは、私を小さな者の滅びを望まれない神様へ思いを向けさせるために忠告してくださったのだと思います。
 かなの家では、なかまの人と共に行う祈りを大切にしていました。毎日、朝の祈り・夕の祈りを行い、主日にはなかまの人と一緒にカトリック静岡教会のミサに参列していました。私の実習中にはカトリックの神父さん二人が二泊三日でボランティアで来られ、その間、暮らしの施設で朝夕ミサが執り行われました。
 朝の祈りは、聖歌で始まり、その日の聖書を読み沈黙し、また聖歌を歌い、主の祈りか聖母マリアの祈りをしていました。夕の祈りは、聖歌、聖書朗読の後、一人一人が自分の言葉で祈り、その後、聖歌、ラルシュの祈り、主の祈りか聖母マリアの祈りをしていました。朝夕の祈りとも聖歌(かなの家で選曲されたもの)はなかまの人が選び、ギター伴奏などで歌っていました。夕の祈りの様子はこのようでした。

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 朝夕の祈りはシンプルなものですが、なかまの人とアシスタントが心を一つにして祈るのを私は快く思い、ここには確かにイエス様が真ん中におられたと感じました。
 皆さんにも、このようなことがあったのではないでしょうか? 兄弟への忠告と複数の仲間との祈り、そこにイエス様がおられるという経験です。

 今日の福音書では、兄弟への忠告と共に祈ることの重要性が語られ、その根本には「イエス様が共におられる」、いつも中心にイエス様がいるということが強調され、だから忠告できる、だから願いが叶うとされました。忠告も願いも、それは自分の思いではなく神様の思いを表すものであり、「神様の思い」とは小さな者が一人も滅びないことを願うというものであります。私たち、そして教会は、その神様の思いに従うものでありたいと思い、そうできるよう祈り求めて参りたいと思います。