オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第3主日 聖餐式(高崎) 『派遣され、仲間と告白する』

 本日は聖霊降臨後第3主日です。高崎の教会で、一種陪餐ではありますが公祷再開後の2度目の聖餐式を献げました。聖霊降臨後の節に入り、久しぶりに緑のチャジブルを着用しました。

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 17名の会衆と共に感謝・賛美の祭りを執り行うことができ、感謝でした。久しぶりに参列した方が再会を果たして、懐かしいお話をされる様子がありました。週報や聖書日課等を15部しか用意していなかったので慌ててしまいました。

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 本日の聖餐式の「み言葉」では、詩編使徒書は割愛しました。旧約聖書エレミヤ書20:7-13、福音書はマタイによる福音書10:24 -33 でした。
  説教では、マタイの弟子を宣教に派遣する箇所で「仲間であると言い表す」という言葉の原語「ホモロゲオー」に着目して、思い巡らしたことを語りました。また、ラルシュ共同体で障害者を「なかま」と呼ぶことにも言及し、「イエス様の仲間であるとはどういうことなのか」と語りかけました。

 本日の説教原稿を掲載します。

    派遣され、仲間と告白する

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 6月から主日礼拝(公祷)が再開され、7日が最初の聖餐式、先主日は「み言葉の礼拝」が捧げられました。本日が聖餐式としては再開して2回目となります。このように皆さんで集い、一種陪餐ではありますが御聖体をいただける恵みに感謝いたします。
 
 本日の福音書の箇所はマタイによる福音書10:24-33です。10章の冒頭で、イエス様は12人の弟子を呼び寄せ、彼らを宣教に遣わそうとします。それに先だって、その心構えを示したのが、本日の箇所です。ここでは、イエス様の宣教の業を引き継ぐ弟子たちは迫害を必ず受けるが恐れてはならないことなどが述べられています。また、先ほど朗読していただいた旧約聖書は「エレミヤの告白」の一つで、人々からの迫害ゆえに、エレミヤは、神から惑わされたと心情を吐露しますが、共にいます主は、彼らに必ず勝利されるとの確信と賛美へと彼を戻す様子が描かれています。なお、エレミヤは紀元前7世紀末から6世紀初めにかけてエルサレムで活躍した預言者であります。

 本日の福音書箇所は大きく3つの段落に分かれています。第1段落は24・25節、第2段落は26節から31節、第3段落は32・33節です。第1段落では弟子が受ける迫害が激しいものであることが語られ、第2段落では人を恐れるのでなく、愛に満ちた父なる神を恐れ敬うよう命じられています。今日は3番目の箇所にスポットを当てて思い巡らしたいと思います。
 マタイによる福音書10:32-33です。こうあります。
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
 ここには、人々の前で、自分を、わたし、即ちイエス様の仲間であると言い表すか、それともイエス様を「知らない」と言うか、ということが問われています。これは12弟子にとどまらず、私たちに対する問いかけです。
 人々の前で、自分を主イエス・キリストの仲間であると言い表す、ここは最新の訳である聖書協会共同訳では「人々の前で私を認める」とありました。私たちが、多くの人々の前で主イエス様を認めるかどうか、が問われているのです。「仲間であると言い表す」、この言葉は原文のギリシャ語では「ホモロゲオー」でした。この言葉は「告白する・言い表す・公言する」の意味でよく使われます。英語の聖書(NKJV)でも「confess」とありました。法律用語として「言い表す・公言する」として用いられ、さらにその用法から転じて「罪を認め、告白する」の意味で用いられたようです。罪を正直に認め、言い表すなら、神は真実で公正であるから、罪を赦します。共同体やキリスト者は罪の赦し、すなわちイエス・キリストによる救いを得たことを「公に表明」します。告白は、イエス・キリストが主であることを認め、神が彼を死者の中からよみがえらせたことにより、キリスト者の共同体が救われたことを証言することであります。したがって、告白とは「キリスト者が、自分に与えられた状況と恵みはすべて神の行った業によるのだということを認めることである」と言えます。新共同訳聖書を訳した人は、その告白こそが「人々の前で自分を主イエス・キリストの仲間であると言い表すこと」であると意訳したと考えます。

 では、仲間とは何でしょうか? グーグルで調べると「心を合わせて何かを一緒にするという間柄をかなりの期間にわたって保っている人。」とありました。そのような意味で「仲間」をとらえるとき、思い浮かぶことがあります。
 それは、日本にある唯一のラルシュ共同体「かなの家」で利用者のことを「なかま」と呼んでいたことでした。障害のある人たちを、施設を利用する人とか支援を受ける人というのでなく、「かなりの期間、心を合わせて何かを一緒にする人」、言い換えれば「同労者」ととらえて「なかま」と呼んだように思います。ラルシュとはフランス語で「箱船」のことですから、同じ船に長い間救いを求めて一緒に乗り込む乗船者の意味かもしれません。

 ラルシュ共同体の創立者であるジャン・バニエは死後に複数の女性と不適切な性的関係をもったことが明らかにされ、未だに私は立ち直れずにいますが、ラルシュの理念や活動は素晴らしいもので、私にとっては神学生の時の夏の実習で、静岡の「かなの家」でなかまの人やアシスタントと寝食を共にした3週間が大きな財産となっています。そこでは「それぞれの賜物を喜ぶ、互いの弱さを受け入れる」、あるいは「一つの家族のように、喜びと苦しみを分かち合い、お互いにゆるしあう」などのラルシュ共同体の理念が現実の生活として現れていました。
 今思うと、「かなの家」にいる障害のある人たちは、私たち同様、与えられた状況と恵みは神の業によるものであり、主イエス・キリストによって救いを得たと認めた「仲間」であったと思うのであります。「かなの家」の創設者、佐藤仁彦さんはそのような思いで、英語圏では「core member」と言われた人たちを「なかま」と呼んだのかもしれません。

 今日の福音書の箇所は、派遣される弟子たちにイエス様がその心構えを語られた場面の一部でした。それは、信仰者として生きる、今の私たちにも語られたものです。そして、「イエス様の仲間であるとはどういうことなのか」ということが問われています。
 皆さん、私たちは人を恐れるのでなく、愛に満ちた父なる神を恐れ敬いましょう。人々の前で自分がイエス様によって救いを得たと告白した私たちをイエス様は仲間であると言ってくださっていますから、喜びを持ってこの世に派遣され自らを捧げて参りましょう。そして、まことの信仰が増し加えられ、宣教と奉仕の業を行うことができるよう、祈り求めたいと思います。