オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

エミリー・ディキンソンの詩と信仰(2)

   先主日の説教でエミリー・ディキンソンの詩「駒鳥」を引用しました。約1か月前に「エミリー・ディキンソンの詩と信仰」についてブログに掲載しました。今回はその続編として別の観点や他の詩も取り上げ、そのことについてさらに思い巡らしてみたいと思います。
 前回、彼女の写真は17歳の時のものが唯一と記しましたが、2012年に友人と写っている写真が発見されたそうです。それがこれです。

f:id:markoji:20200618021603j:plain

 1859年、29歳頃のエミリー・ディキンソン(左)と友人。これら2枚の写真の他、肖像は存在しないとされています。
 
 彼女の詩で最も有名と思われる「こまどり」の詩、先主日は聖句との関係で中島完訳で紹介しましたが、私にとっては(そしておそらくは多くの方も)、次の小塩トシ子訳が馴染み深いものだと思われます。

 わたしが生きているのはむだにならないでしょう
 もしだれか ひとりでも その心のさけるのをふさいであげられたら
 ひとつでも 生命の痛みを軽くしてあげられるなら
 あるいは 苦痛をしずめられるのなら
 あるいは 一羽の弱ったこまどりを助けて
 もういちど巣にもどしてあげられるなら
 わたしが生きているのはむだにならないでしょう

 社会から離れて静かな日々を送ったと考えられるこの詩人にも、片思いのために深い痛みを覚えたことがありました。自分の心が避けるような思いをしたからこそ、、誰かの痛みを軽くしてあげたいと願ったのかもしれません。
 こまどりには優しい習性があるそうです。森の下草近くを行き交うこの鳥は、何かの遺骸を見つけると、木の葉や花びらを集めてきてその上にかけ、手厚く葬ると言います。こまどりは葬り奉仕します。そして、弱ったこまどりを巣に戻し奉仕する人がいます。
 奉仕とは一方的になされるのではなく、お互いになされ「仕え合う」のであり、それこそが「仕合わせ」であり、有益な人生であると、この詩から思わされます。

 「こまどり」の詩は「癒やし」をテーマとしていましたが、エミリー・ディキンソンの詩により癒やされた人が世界中にたくさんいます。いま、「空よりも広く~エミリー・ディキンスンの詩に癒やされた人々 」という本を読んでいます。

f:id:markoji:20200618021732j:plain

 この本には、9・11、航空機事故、愛する者との死別、心を苛む過去のトラウマといった深い悲しみや苦しみ、恐怖の中で、いかにしてディキンソンの詩に癒やされ、生きていく勇気を得たかを語るエッセイ16篇と著名人(ディラン・トーマス、モーリス・センダック等)のディキンソンへの言葉などが収録されています。
 その中で『ユナイテッド・エアライン232便の「希望と飛行」(メル・マクドネル)』が特に心に残りました。1989年7月19日にアメリカのアイオワ州で航空機が墜落し、乗客・乗員298人中125人が死亡した事故に遭遇した大学の教員メル・マクドネルは、搭乗機が降下する時にエミリー・ディキンソンの一編の詩を思い浮かべます。
 それが彼女の詩「希望 Hope」でした。彼はこれらの詩句にすがりつきました。

 希望とは翼をもったもの
 魂のなかに宿っている。
 それは、言葉のない歌を歌い
 まったく、歌を止めることはない。

 激しい疾風のなかでも、最も甘味に聞こえる
 多くの人々を暖かくしてきた
 小さな鳥を黙らせるほど、
 嵐は激しかったとしても。

 私は極寒の地でそれを聴いた、
 全く見知らぬ海で、それを聴いた。
 でも、窮地に陥ったときでさえ
 それは私にパン屑さえ求めなかった。 (大西直樹 訳)

 “Hope” is the thing with feathers –
 That perches in the soul –
 And sings the song without the words –
 And never stops – at all –

 And sweetest – in the Gale – is heard –
 And sore must be the storm –
 That could abash the little Bird
 That kept so many warm –

 I've heard it in the chilliest land –
    And on the strangest Sea –
    Yet – never – in Extremity,
    It asked a crumb – of Me.  By Emily Dickinson(Fr. 314)

 次々に起きる厳しい現実の中でメル・マクドネルはこれらの詩句を口ずさみ、希望を持ち続け、結果的に救われました。

 エミリー・ディキンソンの詩は、多くの人に癒やしや希望を与えています。その源泉は何でしょうか? こんな詩があります。

 信仰とは橋脚のない橋
 私たちの目に見えるものを支えて
 あまりにおぼろで目には見えない
 光景へとみちびく

 その橋は魂を大胆に支える-
 まるで両側に鉄の腕木を持つ
 鋼鉄の揺り篭の中で安心しきって居るよう-
 その橋は幕の後ろでつながっている

 何とつながって居るのか-もし推定できれば
 その橋は
 はるか遠くでためらって居る私たちの足にとって
 もう第1の必需品ではなくなるだろう     (915、谷岡淸男訳)

 Unto the Scene that We do not一 Too selender for the eye
 It bears the Soul as bold
 As it were rocked in Steel
 With Arms of Steel at either side一
 Itjoins-behind the Veil
 To what,could We presume The Bridge would cease to be To Our far,           vacillating Feet 
 A first Necessity.
 
 信仰とは橋脚(支え)のない橋。この詩はサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を彷彿させます。ポール・サイモンが彼女の詩を読んでいたことは「エミリー・エミリー」やアルバムの中の曲で言及していますが、「明日に架ける橋」はこの詩から霊感を得たのかもしれません。
 ディキンソンは隠喩を用いて、信仰に対する考えを定義しています。目に見えるものとはこの世界の現実、目には見えない光景とは神の国(永遠の命)のことではないでしょうか? 信仰はこの世界の現実を支え、神の国へと導く、と詩人は語っています。目で見ようとすると、橋は細長すぎて見えづらいけれど、この橋(信仰)が神の国(永遠の命)につながっていることを確信できれば、信仰が最も必要なものではなくなるだろう、というのです。
 私はこの詩から、有名な聖書の「愛の賛歌」を思い浮かべました。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一 13:13)
 信仰・希望・愛、この三つはどれも重要であるが、愛が最も大いなるものなのだという・・・。
 エミリー・ディキンソンは信仰告白をしなかったため、教会で葬儀をすることも難しかったそうです。だからといって不信仰だったのではなく、信仰に対して厳しいが故に簡単に信仰告白をしなかったのではないでしょうか?  毎日朝3時に起き詩作をしていたといいますが、その時間を始め日々の生活の中で神との親しい時間を持ち続けたと私は考えます。そこから、癒しや希望や信仰の詩が生まれたのだと思います。そして、最も大いなるものは愛(アガペー)であることを知っていた詩人であり、彼女の詩を読む人々はその神の愛を感じていると思うのです。エミリー・ディキンソンの詩の源泉、それは神の愛であると私は思います。私たちは彼女の詩を読むたび神の愛に出会い、思いを新たにします。