オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第8主日 聖餐式『賢明な心で神の国を求める』

 今日は聖霊降臨後第8主日。午前高崎、午後新町で聖餐式を捧げました。
聖書個所は、列王記上 3:5-12とマタイによる福音書13:31-33、44-49。説教では、「天の国のたとえ」について、44節の「宝が隠された畑のたとえ」を中心に、当日の旧約の列王記上3章に示されたソロモンの願いと関連づけ「賢明な心で神の国を求める」をテーマに語りました。「洗礼」と神の国を求めること、及び「主の祈り」との関係にも言及しました。先日、聖公書店から購入した「洗礼を受けるあなたに~キリスト教について知ってほしいこと~」の「洗礼」についての文言も引用しました。

   『賢明な心で神の国を求める』
<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 ここのところ主日福音書は、マタイ福音書13章の「天の国(=神の国)のたとえ」が続けて取り上げられています。
 今日の福音書では、「からし種のたとえ」(31-32節)、「パン種のたとえ」(33節)、「宝が隠された畑のたとえ」(44節)、「高価な真珠のたとえ」(45-46節)、「網にかかった魚を選り分ける漁師のたとえ」(47-49節)という、5つの小さな「たとえ話」が語られています。
 今日の箇所でイエス様は、「天の国とはこのようなものですよ」と、当時の、その地の人には分かりやすい「たとえ」を使い、話しておられます。

 最初の「からし種のたとえ」(31-32節)と第2の「パン種のたとえ」(33節)では、神と私たちとの関係は、その発端がどんなに小さな目立たないようなものであっても、結果は、想像もつかないほど大きくなるということが語られています。神との関係が小さなところから始まっても、最後には大きな結果が約束されているということです。

 3番目は「宝が隠された畑のたとえ」(44節)です。今日はこの箇所を中心にお話します。こうあります。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。これ見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」
 イエス様の時代、人々はお金や宝石など財宝を手に入れると、壺に入れて、土を掘り、これを埋めて隠しました。それは、泥棒や強盗から財産を守るもっとも安全な方法でした。その持ち主が死んでしまって、土の中に埋められた財宝はそのまま残され、土地も人の手に渡ってしまうというようなこともありました。
 たまたまその土地を耕していた農夫(小作人)が、この財宝を偶然に発見し、掘り出しました。その土地は自分のものではありません。その財宝を自分のものにするためには、まずその土地を自分のものにしなければなりません。そこで、その宝物をそこに隠しておいて、家に帰り、今まで持っていた物を全部売り払ってお金をつくり、地主にかけ合って土地を買いました。天の国とはそのようなものだと言われるのです。 
 4番目は「高価な真珠のたとえ」(45-46節)で、このたとえも3番目のたとえと同じです。このたとえは、金持ちの商人が、高価な真珠を見つけると、それを手に入れるために、この人が蓄えた全財産を手放すという話です。

 最後は「網にかかった魚を選り分ける漁師のたとえ」(47-49節)で、漁師たちは「鰭(ひれ)や鱗(うろこ)のないものは、食べてはならない」という律法に従って、網にかかった魚を選り分けます。網の中の魚、すなわち、神様の網にかかった魚でも、最後には、選り分けられて「悪いもの」は投げ捨てられることを暗示しています。ここでの「悪いもの」とは、倫理的な悪ではなく、持ち物すべてを売り払ってでも手に入れたいと人が願う「天の国」に気づかないことだと考えられます。

 今日の箇所で、イエス様が示された教えは何でしょうか? 
 そのことでは、本日の旧約聖書の列王記上3章が参考になります。ここでは父ダビデの後を継いでイスラエルの王となったソロモンは、夢の中に現れた主にただ一つのことを願い求めました。9節にこうあります。
「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」
 ソロモンは、神から来る知恵、聞き分ける心を求めました。それに対して主は「あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。(12節)」と言われました。その願いは神様の御心にかなったのです。
 これは、イエス様によって始められた天の国に気づき求め、それにすべてを賭けていけるように知恵や賢明な心を求めなさいとの意味ともとらえることができると思います。ちなみに「宝」や「真珠」は旧約聖書では知恵の象徴でした。

 人生は選択・決断の連続であると言えます。例えば進学や就職や結婚などです。私たちキリスト者にとってその最も大きなことは「洗礼」であると考えます。私は26歳の時でした。生き方が自分中心から神中心に転換するという、この時が私の人生のターニング・ポイントでした。皆さんにとって、御自身の洗礼の時はいかがだったでしょうか?
 洗礼については、先日、高崎の教会に聖公書店が来られた時に購入した本「洗礼を受けるあなたに~キリスト教について知ってほしいこと~」の「あとがき」(P.147)にこうありました。

f:id:markoji:20200726175729j:plain

『洗礼は人生における新たなスタートであるとともに、あなたという存在の原点になる出来事でもあります。その原点とはあなたがイエス・キリストに結ばれることであり、あなたが神のものとなるということです。』
 洗礼によってイエス様と結ばれ神のものになるのであります。そして、それは天の国(=神の国)においてです。私たちはその国を追い求めたいと願います。
 実は私たちはいつもそれを求めています。それは「主の祈り」を唱えることによってです。私たちは「天におられるわたしたちの父よ、」と天の国にいる父なる神に呼びかけ「み国が来ますように。」と祈ります。この「み国」が「神の国」です。「み国が来ますように。」は英語では「Your kingdom come.」、直訳すると「あなたの王国が来ますように」です。「あなたの王国」こそ、神様が王として統治する国、神の国です。私たちは「主の祈り」を唱える時、いつも「神の国」を求めているのであります。

 イエス様が本日の聖書個所で教えておられること、それは、賢明な心で神の国を求めることではないでしょうか?
 今日の3番目のたとえの「宝が隠された畑のたとえ」の農夫は、予想もしなかった宝物を見つけました。そして、この宝物はこの人の人生を変えてしまうものでした。それは今までの生きてきた成果ともいうべき自分の持ち物を全部売ってでも、手に入れなければならない価値のあるものでした。私たちも人生のある時にイエス様という宝物に出会い、それまでの価値観を変えられ、洗礼によって新しい生き方に入りました。しかし、日々の忙しさ等で、つい、その原点を忘れがちになってしまいます。私たちは、主の祈りを唱えるたびに、また礼拝に集うたびに洗礼の時のその思いを確認し、賢明な心で神の国を求めることができるよう、イエス様のいさおと取りなしによってお祈りしたいと思います。