オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第2主日 聖餐式(新町・公祷) 『身近なところから福音を宣べ伝える』

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 本日は聖霊降臨後第2主日です。私は6月から新町聖マルコ教会の協働司祭となり、毎月第2主日10時半、第4主日14時に新町の教会で司式・説教をすることになりました。新町では今日から公祷を約3か月ぶりに再開し、一種陪餐(パンのみ)ではありますが、聖餐式を献げることができました。伝統ある新町聖マルコ教会で、10名の会衆と共に感謝・賛美の祭りを執り行うことができ、感謝であります(高崎は信徒による「み言葉の礼拝」)。
 私の洗礼名と同じ、聖マルコを冠した名前の教会であり、親しみを持つと共に、私のブログのタイトル「オーガスチンとマルコの家」にも合致し、信徒の方の了解も得ましたので、これからこのブログで新町聖マルコ教会の情報も伝えていきたいと思います。
 本日の聖餐式の「み言葉」では、時間短縮のため旧約聖書詩編は用いませんでした。聖書箇所について、使徒書はローマの信徒への手紙5:6-11、福音書はマタイによる福音書9:35-10:23でした。
 説教では、福音書箇所の3つの段落の最後の段落に絞って話しました。イエス様が私たちを身近なところへ福音を宣べ伝えるよう「いやす」という言葉に注目して論を進め、エミリー・ディキンソンの詩「駒鳥」にも言及しました。

 感染リスク配慮のため、分餐(陪餐)の時、陪餐者は1メートルほど間を開け、司式者や陪餐を受ける人も全員マスク着用で一種陪餐としました。

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 本日の説教原稿を掲載します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 6月から新町聖マルコ教会の協働司祭となりました司祭の福田弘二です。私は昨年9月18日に司祭に按手されました。その節には、皆様にはお祈りとご支援をありがとうございました。今日は、前任者の平岡司祭のピンチヒッターで司式をさせていただいた昨年2月24日に続いての礼拝奉仕です。礼拝はこれまで同様、第2主日午前10時半から、第4主日午後2時から行われます。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 本日は教会暦で、聖霊降臨後第2主日です。聖霊降臨日(ペンテコステ)から2週間がたちました。本日から公祷が再開され、感謝でありますが、新型コロナウイルスはまだ完全には収束しておりませんので、時間短縮等の配慮をしながら執り行います。

 本日の福音書の箇所はマタイによる福音書9章35節~10章8節です。イエス様が福音を宣べ伝え病気を癒やし、12人の弟子を選び権能を授け、派遣にあたりこう命じた、という箇所です。この箇所は3つの段落からなっています。
  今日は福音書の3つ目の段落について思い巡らしたいと思います。マタイによる福音書10章5節~8節です。 
 ここでは、イエス様はこの12人を派遣するにあたり、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」と命じておられます。「天の国(神の国)が近づいた、神の支配が及んできた」という福音(良い知らせ)をイスラエル、身内の人たちだけに伝えなさいと言っているように聞こえます。それでは私たち異邦人には宣教はされないのでしょうか? しかし、マタイによる福音書の最後では「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とすべての民を対象としています。これは、マタイは「救い」を段階的にとらえており、「救い」はまずユダヤ人に告げられ、それから異邦人に広げられるというステップを踏んでいるのだと考えられます。
 遠い国の人や見知らぬ人でなく、まず自分の身近なところの、飼い主のいない羊である人々に福音を伝えるべきとイエス様が言っているように思います。 
 続いてイエス様は「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」とおっしゃっています。そのような権能をイエス様は弟子たちにお与えになりました。
 ここを原文で読みますとまず「病人を癒やしなさい」とあり、それは「癒やす」というギリシャ語「セラペウオー」の2人称・複数・命令形でした。この言葉は英語のセラピーの語源になった言葉です。「セラペウオー」をギリシャ語の辞書で引きますと「癒やす、治療する」のほか「仕える、奉仕する」とありました。イエス様が望まれることは人を癒やし、人に奉仕し仕えることなのだと思います。
 さらに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言っています。これは、どういうことでしょう? このことについては本日の使徒書、ローマの信徒への手紙が参考になります。5章8節にこうあります。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
 これが私たちが「ただで受けた」ことだと思います。私たちが神から離れているときに、「イエス様が私たちのために死んでくださる」という大きな神の愛が先に示されたのです。今度は私たちが愛を示す番です。そしてそれは、まず「癒やす」という行為で示されるのです。

 このことで思い浮かべる詩があります。19世紀アメリカの女流詩人、エミリー・ディキンソンの「駒鳥」という詩です。(中島完訳「自然と愛と孤独と」p.108)

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「もし私が一人の心の傷をいやすことができるなら
 私の生きるのは無駄ではない
 もし私が一人の生命の苦しみをやわらげ
 一人の苦痛をさますことができるなら
 気を失った駒鳥を 巣に戻すことができるなら
 私の生きるのは無駄ではない 」
 詩人は、一人の心の傷を癒やすこと、気を失った駒鳥を巣に戻すこと、それができれば生きる意味がある、と言っています。それは、他者へのさりげない小さな配慮であり、祈りです。この祈りを心に秘めて生きていきたいと願います。

 私たちの身の周りの地域、職場、家庭等には、癒しや助けを必要としている人がいます。私たちイエス様によって使徒とされた者は、「天の国は近づいた」という福音をこのような身近な人々から伝えていきたいと思います。私たちが、他者と共に歩み、人を癒やし人に仕え、福音を伝えていく存在となりますように、収穫の主である神に祈りを捧げて参りましょう。