オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

八木重吉の詩と信仰(2)

 先主日、その前の主日に続き八木重吉の詩を説教で取り上げました。詩稿集「貧しきものの歌」の中にある「きりすと/ われにありとおもうはやすいが」の詩です。当日は、イエス様は疑う者にも近寄り、そのような弟子と「共にいる」ことの例としてこの詩について言及しましたが、限られた時間で思うように述べることができませんでした。この詩に込められた八木重吉の思い、そして前回に続いて彼の信仰にスポットを当てて思い巡らしたいと思います。

 こんな詩です。
  きりすと/ われにありとおもうはやすいが
 われみずから/ きりすとにありと
 ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ
 きりすとが わたしをだいてくれる
 わたしのあしもとに わたしが ある

 重吉は洗礼を受けた後、教会にはほとんど通っていなかったようです。しかし、聖書は本当によく読んでいたと思われます。八木重吉記念館には彼の愛用の聖書が展示されています。

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    びっしりと書き込みやラインが引かれています。読み込んでいることが分かります。重吉愛用の聖書は文語訳で、いわゆる明治訳と言われるもののようです。この聖書で重吉が「きりすと/ われにありとおもうはやすいが」の詩のインスピレーションを得たのは、ガラテヤ書2章20節ではないかと思わされます。次に記します。
「我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」
 新共同訳ではこうです。節の区分けが違い19節の後半からです。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
 パウロの心からの告白です。キリストと共に十字架につけられて、もはや自分は死んでいる、生きているのはもはや私ではなく、キリストがわたしの内に生きている、私が主体となって、私がどのように生きるか、ではありません。「キリスト我が内に在りて生くるなり。」とはキリストこそが私の歩みの主体であるということです。私の人生の主語は私ではなくてキリストだということであります。
 重吉の詩の詩の「きりすと/ われにありとおもうはやすいが」の「キリスト我に在り」というのはこのこと言っていると思われます。キリストが主語で、「私の内にあるというのを思うのは易い」というのです。それは分かる、「しかし」と重吉は言います。
「われみずから/ きりすとにありと
 ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ」と。
 私自らが主語となって「キリストに在り」と、少しでも感じるまでにはまだ遠い道のりがある、というのです。
 詩の最後はこうです。
「きりすとが わたしをだいてくれる
 わたしのあしもとに わたしが ある」
 キリストにすべてを委ね切れず、私の自我は残っているが、そういう私をキリストは包みこんでくださる、と私には読めます。キリストへの感謝と共に委ねきれない自分を歌った詩のように思います。

 同じ詩稿集「貧しきものの歌」の中にこういう詩もあります。
「このわたしは/ きりすとにいだかれた
 そのわたしのまぼろしである
 そしてまたふしぎなことには
 このわたしのうちに きりすとがかがやく」
 この詩では、キリストに抱かれ包まれると共に、キリストによる赦しとその霊の内住が示唆されています。

 詩稿集「貧しきものの歌」は1924年大正13年)12月9日に編まれていますが、翌1925年(大正14年)4月29日に編まれた詩稿集「春のみず」にはこのような詩があります。
「きりすと
 われによみがえれば
 よみがえりにあたいするもの
 すべていのちをふきかえしゆくなり
 うらぶれはてしわれなりしかど
 あたいなき
 すぎこしかたにはあらじとおもう」
 重吉はキリストの復活を、「客観的事実」としてではなく、「自分の中で起こった出来事」として受け入れています。それが信じられたとき、自分の中で確かに息を吹き返すものがあることを、彼は感じました。そこで希望、そして生命の躍動をうたいました。
 結核という病気である自分は今までは時々、「死のうか」と思っていた。そのことを彼は「うらぶれはてしわれ」とか、「あたいなきすぎこしかた」と表現しました。しかし、キリストの復活が自分の中で事実となった今は違う。「死のうか」と思っていた暗い心は、もう過去のものとなった、と歌っています。この詩は「内なるキリストの復活」を歌っていると考えられます。かなり強い信仰告白の詩と言えます。

 半年の間に編集した詩稿集の中に、委ねきれない自分を歌った詩があり、復活のキリストを信じる信仰の詩があります。時に信じ、時に委ねられない自分。それは八木重吉だけでなく、キリストを自分の救い主として受け入れて信徒となった私たちにも言えるかもしれません。八木重吉の詩がこのように長い間、読み継がれている秘密はこのようなところにもあるのかもしれません。