オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「T. S. エリオットの詩と信仰(1)」

 今年は2月17日(水)が大斎始日で、高崎の教会で「灰の水曜日」の礼拝を捧げました。私は教育公務員でしたので、平日の礼拝にはほとんど出たことがありませんでした。ただ、「灰の水曜日」の礼拝は、東京出張の帰りに寄った四谷の聖イグナチオ教会で「灰の水曜日」の夕の礼拝があり、額に灰の十字架をつけてもらったことがありました。四谷駅で額に灰の十字架をつけた人を見て「私もそうだった」と気づいたことを覚えています。退職してから神学校の研修で行った韓国の教会や、神学校を出てから赴任した榛名の教会で「灰の水曜日」の礼拝に参列しました。
 「灰の水曜日」については馴染みが薄かったのですが、信者になる前から名前だけは知っていました。それは、T.S.エリオットの「灰の水曜日」の詩を学生時代に読んでいたからです。私が親しんでいたのは次の「英米詩集」(白鳳社)に収められていた「聖灰(かい)水曜日」でした。

f:id:markoji:20210225193632j:plain

 T.S.エリオットは米国に生れ英国に渡り、1927年6月にユニテリアンから英国国教会聖公会)に転会し、同年11月に英国の市民権を取得した詩人です。1922年発表の詩「荒地」で当時の英米の詩壇に衝撃を与えました。「荒地」は第1次世界大戦後の欧州の精神風土を表している言われ、我が国の詩壇にも大きな影響を与えました。第2次大戦中の1943年に宗教詩の集大成と言われる「四つの四重奏」を刊行し、大戦後、1948年にノーベル文学賞を受賞しました。ミュージカル「キャッツ」の原作者でもあります。
 これから数回にわたり「T.S.エリオットの詩と信仰」について記そうと思います。彼の詩の変遷を追うことは、一人のキリスト者の信仰の歩みを巡る旅でもあると考えます。
 今回は、彼の聖公会(アングロ・カトリック)に転会直後の1930年に発表された「聖灰水曜日(灰の水曜日)」について思い巡らします。
 この詩は「アングロ・カトリックの信仰を得たエリオットが、大斎節(四旬節)の最初の水曜日に神の前で悔い改め、霊魂の浄化と救済を祈る詩である(『四つの四重奏』(岩波文庫)の「灰の水曜日」の解説から)」と言われています。

 「聖灰水曜日(灰の水曜日)」は6つの章から成り立っていますが、第1章の冒頭の詩句はこうです。前述した「英米詩集」(白鳳社)の上田保訳で記します。
 「聖灰水曜日」    T.S.エリオット

 わたしはふたたび、ふりかえることことを願わないので
 わたしは願わないので
 わたしはふりかえることことを願わないので
 この人の才や、かの人の能力をうらやんで
 かかるものを、もはや争って手にいれようとはしない
 (どうして 年おいた鷲が翼をはる必要があろう)
 どうして、世の常の力が消えうせたことを
 なげく必要があろう。

 原文はこうです。
 Ash Wednesday    T.S.Eliot

 Because I do not hope to turn again
 Because I do not hope
 Because I do not hope to turn
 Desiring this man’s gift and that man’s scope
 I no longer strive to strive towards such things
  (Why should the aged eagle stretch its wings?)
 Why should I mourn
 The vanished power of the usual reign?

 この詩のキーワードは、turnであると考えられます。「聖灰水曜日(灰の水曜日)」については、次の本『「灰の水曜日」研究(福田陸太郎・森山泰夫共著)』から多くの示唆を得ました。

f:id:markoji:20210225193735j:plain

 この本によれば、この詩の冒頭は、カヴァルカンティ(13-14世紀のイタリアの詩人。ダンテの第一の友)の詩‘Ballata’から採ったものとのことですが、カヴァルカンティの詩の‘return’を‘trurn(過去を振り返る)’にもじったことが記されています。エリオットの頭の最初には‘return’という言葉があったのです。これは大斎始日(灰の水曜日)の礼拝の中で、額に灰の十字架のしるしをするときの言葉「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい(remember you are dust, and to dust we shall return)」を思い浮かべます。
 エリオットの詩の冒頭では、振り返る(trurn)ことを望んでいない、神に立ち帰ること(return)の望みを持っていないことが記されていますが、詩が進むにつれ気持ちの変化が表れてきます。第1章の終わりは次の言葉で締めくくられています。

 われら罪びとのため、今も、またわれら死にのぞむいまわの時も祈りたまえ
 われらのため、今も、またわれら死にのぞむいまわの時も祈りたまえ
 Pray for us sinners now and at the hour of our death
 Pray for us now and at the hour of our death.

  ここでは「アヴェ・マリア」の一節がそのまま引用されています。
 章が進むにつれて信仰的な詩句が多くなります。第3章の最後はこうです。

 主よ、わたしはとるにたりないものです
 主よ、わたしはとるにたりないものです
 しかしお言葉をかけて下さい。
 Lord, I am not worthy
 Lord, I am not worthy
 but speak the word only.

 第5章の冒頭にこうあります。
 
 失われた言葉が失われ、力つきた言葉が力つき
 聞かれない、語られない言葉が
 語られず、聞かれないとしても、
 まだ、語られない言葉があり、聞かれない御言葉、
 言葉のない言葉、この世のうちの、そして
 この世のための御言葉がある。
 光は闇にさからって、
 静かでないこの世は、あいかわらず 
 静かな御言葉を中心に、逆まいていた。
 If the lost word is lost, if the spent word is spent
 If the unheard, unspoken
 Word is unspoken, unheard;
 Still is the unspoken word, the Word unheard,
 The Word without a word, the Word within
 The world and for the world;
 And the light shone in darkness and
 Against the Word the unstilled world still whirled
 About the centre of the silent Word.

 ここの「言葉(The Word)」は「ロゴス」であるキリストを表していると考えられます。「光は闇にさからって(And the light shone in darkness)」はヨハネによる福音書1:5が下地になっています。
 第6章の最後はこうで、この詩を締めくくっています。
 
 主の御心のなかにわれらの安らぎを
 これらの岩のあいだにあっても
 修道女よ、母よ
 河の精よ、海の心よ
 わたしを手放したもうな
 わが叫びを主のもとへとどかしめたまえ
 Even among these rocks,
 Our peace in His will
 And even among these rocks
 Sister, mother
 And spirit of the river, spirit of the sea,
 Suffer me not to be separated
 And let my cry come unto Thee.

 前述した『「灰の水曜日」研究』によれば、「主の御心のなかにわれらの安らぎ(Our peace in His will )」はダンテの「天国篇」第3歌のピッカルダ(13世紀イタリアの修道女)の言葉から採られたとのことです。これは「聖者がそれぞれ特有な天を与えられて、調和と秩序のうちにそこに暮らしている状態の説明」とありました。
 ここでは、「修道女よ、母よ(Sister, mother) 河の精よ、海の心よ (And spirit of the river, spirit of the sea,)」と仲立ちの女性等に呼びかけ、「わが叫びを主のもとへとどかしめたまえ(And let my cry come unto Thee.)」と最終的には神に祈願しています。純粋なキリスト教信仰からすれば、「河の精」や「海の心」に祈りの仲立ちを願うのは首を傾げざるを得ませんが、詩の最後を神への祈りの言葉で締めくくり、結果的には神に立ち帰り(return)、「灰の水曜日(Ash Wednesday)」と題した詩の意図に気づかされます。
 
 「灰の水曜日(Ash Wednesday)」(1930年)は「荒地(The Waste Land)」(1922年)のテーマ「追憶と欲望」と共通する面もあり、それに「浄罪の祈り」が加わっています。神の絶対的な愛によって救われることを祈願し、それと共に崇高な美を慕い求めてもいます。「聖灰水曜日(灰の水曜日)」は、エリオットが1927年にアングロ・カトリックに転会した3年後の作品で、信仰的には中途半端な面も感じますが、象徴性と音楽性に富み、「祈りの道の厳しさに耐えていこう」との決意を感じさせる宗教詩であると言えるように思います。