オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

大斎節第2主日聖餐式 『キリストの後に従う』

 本日は大斎節第2主日。午前高崎、午後新町の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、ローマの信徒への手紙8:31-39とマルコによる福音書8:31-38。説教では、マルコ8:34を中心聖句として思い巡らし、「十字架を負うこと」や「主イエスの後に従うこと」の意味について述べました。映画『天使にラヴソングを(Sister Act)』の中の曲「I Will Follow Him」の歌詞にも言及しました。

   『キリストの後に従う』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は教会暦では大斎節第二主日です。今年は大斎節は2月17日(水)から始まりましたので、10日ほど過ぎたことになります。 
 今日の福音書はマルコによる福音書8章31-38節で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「イエス、死と復活を予告する」です。
 私は今日の箇所の中心聖句は34節だと思いました。今日はこの御言葉を中心に思い巡らしてみたいと思います。こうあります。
『それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。』

 イエス様は弟子たちに加えて群衆に、つまり私たちに、「自分の十字架を負って私に従いなさい」と語られます。しかも「自分を捨てて、十字架を負いなさい」と、とても厳しい言葉として響いてきます。
 新共同訳聖書では「自分の十字架を背負って」とあり、日本語でも「十字架を背負う」と言います。一般的には「自分の持って生まれたものや生きているうちに与えられたものを日々背負って生きていく」ことなどを言うと思います、広辞苑には「罪の意識や悲しみを身に受け持つ」とありました。
「私は、この十字架を一生背負い続けます」というような言葉を聞くこともあります。イエス様がここで言っていることもこのようなことなのでしょうか?

 この箇所をギリシャ語原文から直訳するとこうなります。
「そして、群衆を彼の弟子たちと共に呼び寄せて、彼は彼らに言った。
 もし誰かが私の後ろに従うことを欲するなら、彼は彼自身を否定しなさい。
 そして、彼は彼の十字架を運びなさい。そして彼は私に従いなさい」。

 この聖句を理解するには、当時の十字架刑について知る必要があります。
 十字架刑は、ギリシア人及びローマ人が発明した刑です。元々は反乱した奴隷に限って用いられ、その後すべての犯罪者に適応されました。十字架刑は、刑を受ける人が十字架を担いで行きます。その向かう途中で群衆の嘲りを受けます。この刑の本来意味していることは、かつて反乱した者が、今は「ローマ法に従順に服している」という姿を見せることでした。
 「自分の十字架」とは、イエス様と同じような苦しみの十字架を担げという意味ではありません。「自分の十字架」とは、比喩的表現で、「自分の思いと神の思いが交差する」時、自分の思いを捨てて(後ろにして)、神の思いに従順になりなさいという勧めです。
 つまり、十字架を運ぶ、十字架を負うとは「従順の勧め」です。十字架刑が意味しているのは、ローマ法への従順、つまり、「支配している権威への従順」です。イエス様は、父なる神に従順に歩まれました。どこまで従順だったかというと、「死に至るまで」です。そのように、私たちも、神様の御心に従順になる必要があるのです。自分の思いを優先させたい、自分の欲望を満たしたいと思う時に、そうではなくて、神様の御心に従順になること、それが「自分の十字架を負う」という意味なのです。
 ですから「自分の十字架を負う」とは「自分の問題、悩み、傷等を背負って生きる」ということではありません。それらは、自分を捨てる時に主にお委ねしました。そうではなく、「主に従う」ということです。言い換えれば「神様の御心に従う」ということが、「自分の十字架を負う」ということであると思います。
 そして、もうひとつ、この御言葉で重要なところがあります。
 イエス様が言われた「私の後に従いたい者は」というところです。これは、ギリシヤ語で「オピソー・ムー」とあり、「私の後ろに」という意味です。英語の聖書では「after me」とありました。
 この個所のすぐ直前に、こんなやり取りがありました。イエス様が「排斥され殺され三日後に復活する」ことを弟子たちにお話になり、弟子たちはそれを理解できずペトロがイエス様をいさめ、それに対しイエス様がペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」と言われたところです。ここで「引き下がれ」と訳されている言葉も、実は、「オピソー・ムー」なのです。「私の後ろに行け」なのです。
 イエス様の後ろに行く。その反対は、「イエス様の前に行く」ことです。それはイエス様が望まれたことではありません。イエス様が望まれているのは「イエス様の後ろに行く」こと、つまり「イエス様の後に従う」ことです。
 では、「イエス様の後に従う」とは具体的にはどういうことでしょうか? それは「日々祈り、御言葉をよく聞き、神様を信じて生きる」ということだと思います。今日のように礼拝に参列して、主なる神様をほめたたえることです。信仰生活を続けていくことが、「十字架を負うこと=イエス様の後に従う」ことと言えます。

 「主イエス様の後に従う」ことで、思い浮かべる音楽があります。それは、「I Will Follow Him」という曲で、映画『天使にラヴソングを(Sister Act)』のラストでシスターたちの聖歌隊が歌った曲です。この映画をご覧になった方はいますか?

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 この歌は元はペギー・マーチのヒット曲ですが、映画版の歌詞では「彼(him)」が大文字の「Him」になっていますので、この場合の彼は主なる神様のことです。
 出だしはこうです 。 
『I will follow him    主についていく
 Follow him wherever he may go  主の行かれる所ならどこへでも

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(この後は和訳だけ)
 『この先ずっと主のみもとを何があっても離れない 主こそ我が運命
  主についていく 心触れた日から分かっていた
  どんな深い海も どんな高い山も 主の愛から引き離せはしない
  主についていく   主の行かれる所はどこへでも
  いつも主と共に 主の愛と共に
 どこまでもついていく どこまでもついていく
 主を愛している 主についていく
 真実の愛、主はずっと変わらない真実の愛。
 今も、そして永遠に 永遠に!』

 皆さん、主イエス様は私たちが「イエス様の後に従う」ことを求めておられます。クリスチャンとは「キリストに従う者」という意味です。それがイエス様の本当の弟子です。「十字架を負うとはイエス様の後に従う」こと、信仰生活を続けていくことです。大斎節のこの期間、あらためて自分を見つめ直し、生涯イエス様が求めておられる生き方、イエス様の後に従って歩んでいく信仰生活を送ることができるよう祈り求めて参りたいと思います。


 * 映画『天使にラヴソングを(Sister Act)』の中の曲「I Will Follow Him」は下のアドレスから見る(聞く)ことができます。
   https://www.youtube.com/watch?v=B-4TzLBWNHE