オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

顕現後第3主日 主教巡回・堅信式(高崎)『弟子である私たちの召命』

 本日は顕現後第3主日。みぞれ混じりの天候でした。
 高崎の教会は主教巡回でした。

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 主教様の司式・説教で堅信式がありました。高崎では2009年2月以来の堅信式でした。
 聖書箇所は、エレミヤ書 3:21-4:2とマルコによる福音書 1:14-20。
 私は午後3時からの新町の礼拝の司式・説教をしました。説教では、イエス様が弟子を招く3つのパターンの動作を示し、18日に帰天された新町聖マルコ教会信徒の瀧沢よし子さんの人生を実例として紹介しました。

   『弟子である私たちの召命』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第3主日です。期節としては顕現節です。顕現節は、主イエス・キリストの出現を公言する(おおやけにいう)期節です。顕現節は顕現日(1月6日)から大斎始日(灰の水曜日)の前日まで、今年は2月16日までです。
 顕現後第3主日福音書は、イエス様の公生涯の第一声から選ばれています。旧約聖書は、福音書に調和して、エレミヤ書での「立ち帰れ」との主の言葉が見られます。
 本日の福音書の箇所はマルコによる福音書1章14節から20節です。
 今日の福音書の内容は、大きく2つの部分からなっています。イエス様のガリラヤ宣教の要約(14-15節)と最初の弟子の召命(16-20節)です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ガリラヤで宣教を始める」と「四人の漁師を弟子にする」となっています。今回は後半にスポットをあてて見ていきたいと思います。

 16-18節をご覧ください。
『イエスは、ガリラヤ湖のほとりを通っていたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。』とあります。
 シモンとは、後に教会のリーダーとなるペトロの本名です(ちなみにペトロとはイエス様が彼につけたニックネーム「ケファ(岩)」のギリシャ語読みです)。イエス様は、シモンとアンデレという漁師の兄弟の仕事の様子をご覧になり、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。すると二人はすぐに網を捨てて従ったのでした。

 イエス様は漁師の兄弟二人に魚や貝ではなく「人間をとる漁師にしよう」と言われたのです、「人間をとる漁師」とは何か・・・。私はこう思います。「何よりもまずイエス様が、人間をとる最高の漁師であられたのだ」と。漁師は普通魚をとって、食べたり売ったりして、生活の糧を得るためにそうするのですが、人間をとる漁師であるイエス様は、人間をとって食べるわけではありません。イエス様は、人間をとって、御自分のいるところ、御自分がつながっている命の源である神様につなげるために「とる」お方ではないかと思います。
  
 次に、イエス様は舟の中で網の手入れをしてるゼベダイの子のヤコブヨハネの兄弟をご覧になり、そしてお呼びになりました。すると二人はイエス様の後に付いていました。「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、」とありますが、雇い人がいたということは裕福だったということだと思います。そういう裕福な状況を捨てて、ゼベダイの子のヤコブヨハネの兄弟はイエス様に従ったのです。
 
 イエス様が弟子を招くパターンは三つの動作で示されています。まずイエス様が「ご覧になる」、次に「私に付いて来なさい」と呼びかける。そして、弟子になる人たちがイエス様に「従う」のです。イエス様は私たちの日常をよく見てくださいます。シモンとアンデレは舟の中で網を打っていました。ヤコブヨハネは舟の中で網のつくろいをしていました。その日々の日常をイエス様は、「ご覧になり」、そして「私に付いて来なさい。」と呼びかけられました。すると、この漁師たちは、すぐに、イエス様に「従った」のです。
 漁師であるシモンとアンデレの兄弟、そしてヤコブヨハネの兄弟が、すぐに自分の仕事の糧である網を捨てて、裕福な状況を捨ててイエス様に従ったのは常識的に考えれば、あまりに変であると思います。「もっと冷静に、将来設計を考えてからにしたらどうか」と思ってしまいます。しかし、そのときこの4人はこの方こそが「真実の漁師」で、付いていくべき存在だと理解し、呼びかけに応え、信じて従ったのではないかと考えます。

 イエス様に従っていくために、私たちも何かを捨てなくてはならないと思います。それは必ずしも今の仕事ということではないように思います。それは囚われとか執着とか、過去の私を縛っている生き方、などです。それによって新しい価値観の聖なる世界に招かれるのだと思います。具体的に言えば、富や地位や力という世俗の価値観を捨て、神様に従い仕えることで真の平安を得る事ができるという聖なる価値観への転換です。この世中心だった生き方を神中心に変え、主に立ち帰ることを神様は望まれています。

 このことで私はある人の生き方を思います。それは、先週月曜、18日に逝去されたこの教会の信徒、マーガレット瀧沢よし子さんです。一昨日の金曜、22日にこの教会で葬送式が行われ、私は説教の中で瀧沢さんのプロフィールを紹介しました。開業医の家に生まれ、何一つ不自由のない裕福な生活を送っていたよし子さんは新町の聖公会幼稚園の先生をして楽しい毎日を送っていました。お医者さんとのお見合いの話もあったそうですが、共に聖公会の教会に集った進一さんから猛アタックされ、親の反対を押し切って恋愛結婚し、それを機に軽井沢の立教学院みすず山荘に、夫婦で管理人として常駐勤務しました。当時、水道も通っていないような場所で毎日泣くこともあったそうです。そのような環境に身を置いたのは、イエス様がお嬢様で幼稚園の先生だった瀧沢よし子さんを「ご覧になり」、進一さんを通して「私に付いて来なさい。」と呼びかけたイエス様に「従った」からだと思いました。瀧沢さんは、裕福な生活や世俗の価値観を捨て、イエス様の招きに応え従い、聖なる価値観に生きたと思うのです。
 
 皆さん、イエス様は私たちを、神様のもとに運び、結び付ける「人間をとる漁師」です。この方こそ従うべき存在だと分かった時、私たちは「すぐに」招きに応えるのであります。それがイエス様の弟子である私たちの召命です。イエス様が私たちを招いたらすぐにそれに応え、主に付いていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。