オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「星の王子さまとキリスト教」

 前々回のブログで、浜口庫之助作詞・作曲の「バラが咲いた」はサン=テグジュペリの『星の王子さま』のバラをイメージして書かれたようだ、ということを記しました。
 『星の王子さま』は1943年の初出版以来、世界の発行部数は1億4500万部以上、翻訳された言語・方言の数は270以上で、聖書の次に翻訳数の多い本とされています。日本でも昭和40年代にベストセラーとなり、私は中学2年の夏休みの読書感想文で感想を書き、国語の先生に授業で「よい感想文として」私の文を読まれた経験があります。
 岩波少年文庫内藤濯訳で親しまれてきました(私も中学で読んだのはこの訳)が、最近、新しい訳(河野万里子訳)で読み直しました。

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 こんなあらすじです。
『自分1人でなんとか飛行機を修理して砂漠を脱出しないといけない「ぼく」。
そんな「ぼく」のもとに現れたのが「星の王子さま」。
 話を聞くと、王子さまは他の星からやって来たという。しかも普通の家くらいの大きさしかない星。そんな王子さまが自分の星を捨ててきたのは、一輪のバラが原因でした。王子さまの星に咲いた、きれいなバラ。でもそのバラは言葉で王子さまを振り回すようになります。それに耐えられなくなった王子さまは自分の星から逃げ出しました。
 バラから逃げ出すように自分の星を出てきた王子さま。彼が自分の星の近くにある星を6つほど回ってきたことを「ぼく」は聞く。「王様」の星。「うぬぼれや」の星。「酔っ払い」の星。「ビジネスマン」の星。「点灯夫」の星。(点灯夫=街灯をつける人)「地理学者」の星。そうした星たちを回って、王子さまはこの地球にやってきた。
 地球に来た王子さまは、バラの花が何千本も咲いてるのを見かける。そうして自分の星には一輪しかなかったバラが、実はどこにでもある普通の花だったことを知る。その後、キツネと友達になった王子さまは、もう一度何千本も咲いたバラの花を見に行くことをキツネにすすめられる。同じバラでも、自分の星に咲いたバラが世界にたった一輪しかないバラだ。そのことに気づいたことを、「ぼく」は王子さまから聞く。
 王子さまと一緒に井戸で水を飲み終えた「ぼく」は飛行機の修理のために、王子さまと一旦別れる。そして翌日の晩、王子さまを迎えに行くと、王子さまはヘビに自ら咬まれていた。ちょうど王子さまが地球にやってきて1周年の日でした。』

 地球に何千本も咲いているバラ。しかし、それは星の王子さまにとって何も関係のないバラで、王子さまの星のバラは王子さまが心を込めて世話をしたかけがえのない特別のバラなのでありました。それは浜口庫之助が作詞・作曲しマイク眞木が歌った「バラが咲いた」のバラのようです。

 「星の王子さま」とキリスト教には何らかの関係があると感じていましたが、そのことを明確にした本があります。それがルドルフ・プロット神父著の『「星の王子さま」と聖書』です。

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 この本では、山口ザビエル・センターに仕えて30年のプロット神父が、優しい日本語で「星の王子さま」を用いて聖書を語っています。王子さまの話している言葉の中にはイエス様の心がとても響いています。サン=テグジュペリは幼い頃から母に聖書を読み聞かせられ、カトリックの学校に通い、一時は司祭になろうかと思ったそうです。聖書のお話はごく身近にあって、殊更に構えなくてもキリスト教の考えが生活に生きていたのだと思います。「星の王子さま」と聖書の響き合うその言葉や状況設定は、そこに神様の力が働いていたことを感じさせます。

 この本の中でも記されているように、星の王子さまと親しくなったキツネは王子さまと別れ際に「秘密を教えるよ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。一番大切なことは、目で見えない」と話します。
 私はここから聖書の一節を思い起こします。それは、「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二4章18節)という言葉です。見える世界、つまり、人間の虚栄心、支配欲、功名心、自己利益の追求等は、はかないものであり、いつか消えてしまうような不安定なものです。しかし、目に見えないもの、つまり神の存在、そして神の愛は、いつまでも変わらず、存続するのです。それは、言い換えれば「世俗の価値観でなく聖なる価値観により一番大切なことを見ることができる」ということなのだと思います。

 「星の王子さま」という世俗のベストセラーを読む人が、この本の中にある聖なる「キリスト教」の存在に気づいてほしいと心から願います。