オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

顕現後第1主日・主イエス洗礼の日聖餐式 『イエス様の洗礼・私たちの洗礼』

 本日は顕現後第1主日・主イエス洗礼の日。新町の教会で聖餐式を捧げまし
た(高崎はみ言葉の礼拝)。聖書箇所はイザヤ書 42:1-9とマルコによる福音書1:7-11。説教では、キリストの洗礼の場面から、イエス様が洗礼を受けた意味及び私たちが洗礼を受ける意味を知り、洗礼時の「キリストを主と信じて従い、生涯その模範にならう」という約束を日々の生活の中で果たしていくよう祈り求めました。

 『イエス様の洗礼・私たちの洗礼』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 今日は顕現後第1主日、顕現日の後の最初の主日。そして、主イエス洗礼の日です。
 顕現日とは、異邦人である東方の博士たちがイエス様と出会ったことから、救い主がユダヤ人だけでなく、異邦人にも現れたことを記念する日です。本日はその顕現日後の最初の主日です。
  なお、本日の福音書の箇所では、イエス様は、ヨルダン川で洗礼を受けられたときに、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と神様によって宣言され、神の子としてこの世界に現れました。つまり顕現されました。ですからイエス様の洗礼と顕現は同じ意味を持つのであります。
 
 イエス様が洗礼を受けたのはなぜでしょうか? また、イエス様の洗礼と私たちとの関係、さらに私たちが洗礼を受ける意味は何でしょうか? このようなことを思い巡らしたいと思います。

 今日の福音書箇所であるマルコによる福音書1章7節~11節の前半、7節・8節は、降臨節第2主日でも読まれましたので、今回は後半の9節~11節について考えたいと思います。
 イエス様は、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。そして、水から上がっているとき、天が裂け、霊が鳩のように下り、その時、「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という声が、天から聞こえた、というところです。

 ヨハネの洗礼は「罪の赦しを得させるための」洗礼でしたが、そうならば、罪のないイエス様がなぜ、ヨハネから洗礼を受けたのでしょうか? 
 イエス様の洗礼の前にマルコ1:5に「ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあるように、ヨハネの洗礼が住民に広がっていたことが分かります。それを思い起こすと、イエス様の洗礼は、それによってこの民の仲間となり、彼らを新たな時代へと招くためだと言えます。
 
 10節に「天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中に降って来るのをご覧になった」とありますが、ここの「天が裂けて」に注目したいと思います。「裂ける」は直訳では「引き裂かれる」であり、その行為が神様によって起こされたことを婉曲的に示す神的受動態でした。神様によって天が引き裂かれたのです。イエス様の受洗と共に、神の介入が開始されたのです。天が裂かれ、霊が下ってくる。この霊と共に、「人々を神の国(永遠の命)へ導く」という神様からの使命がイエス様に与えられ、それを果たす力も付与されたのです。これはイエス様に自らの使命を自覚させる出来事だと言えます。

 この絵をご覧下さい。

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 これは中世の修道院で使われていた「時祷書(決められた時間に祈るための祈祷書)」の挿絵です。15世紀後半~16世紀前半の頃のものと思われます。イエス様の受洗とともに、神様によって天が引き裂かれ霊が鳩のようにイエス様に降っている様子が描かれています。神がこの世界に介入しています。イエス様の洗礼の意味を表現した絵と言えます。

 聖書に戻ります。11節です。『すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』
 天からの声が「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と語りかけ、神様からの使命を担うイエス様を励まします。洗礼によって民の罪を背負う歩みへと踏み出したイエス様に、神様は限りない愛と支持を語りかけて、イエス様を勇気づけているのです。

 この霊がイエス様の上に降ったという記述は、本日の旧約聖書日課イザヤ書42章1節を踏まえています。こうあります。
『見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。/私は彼に私の霊を授け/彼は諸国民に公正をもたらす。』  
 彼は神から霊を受け、神の救いを待ち望む人々に派遣される人物ですが、彼はやがては民の罪のために「引き裂かれる」ことによって、民に「平和」と「いやし」を与える「主の僕」であるイエス様と見なされています。イエス様は聖霊に支えられ、限りない神の愛に包まれて、私たちの罪の赦しとなる十字架への道を歩き始めるのです。イエス様はこの洗礼によって新たな人生、公生涯を始められたのです。
 
 また、人の子であるイエス様への「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」というこの声は、私たちすべての人間にも向けられた、神様の心であります。洗礼によりイエス様が民の仲間になったことにより、私たちすべての人間も「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と祝福されていることが明らかにされたのです。洗礼は私たちが「神の愛する子」とされ、それぞれに使命が与えられ、キリスト者として新たな人生を歩み始めることを意味していると言えます。
 
 皆さん、私たちは今日、洗礼により、天が裂けて神が介入し、聖霊が鳩のように降り、その時、父なる神様が「愛する子」と言って私たちをも祝福してくださることを知りました。私たちも神の子とされ、それぞれに使命が与えられたのです。また、私たちは、洗礼の時に「キリストを主と信じて従い、生涯その模範にならうこと」を約束しました。本日の特祷にある「その約束」とはこの洗礼時の誓約(祈祷書P.278)のことです。「キリストを主と信じて従い、生涯その模範にならう」と誓ったこの約束を、私たちは日々の生活の中で果たしていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。