オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

大斎節第1主日聖餐式 『荒れ野で支えてくださる神』

 本日は大斎節第1主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。礼拝後、堅信受領者総会があり、報告や予算案等が承認されました。礼拝の聖書箇所は、ペトロの手紙一 3:18-22とマルコによる福音書 1:9-13 。説教では、大斎節の始まりに当たり、荒れ野で神が支えてくださることを理解し、イエス様を模範とし、祈りを捧げ、信仰を持ち続けていくよう祈り求めました。私自身の大斎節の目標や具体策、眞野司祭作成の「レント・カレンダー」の活用法にも言及しました。

   『荒れ野で支えてくださる神』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は教会暦では大斎節第一主日です。大斎節はカトリックでは四旬節、英語ではレントといいます。大斎節とは何でしょう? 大斎節というのは、灰の水曜日(今年は先週の水曜日、2月17日)から復活日までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)を言います。四旬節という言い方は40日間のことを意味します。大斎始日の礼拝でも少しお話ししましたが、大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。
 受付に今年の「レント・カレンダー」と呼ばれるものを置きました。これは中部教区の眞野玄範司祭さんが作成されたものです。

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 これを見ても分かるとおり、復活日(今年は4月4日)の前日の聖土曜日までがレントで、大斎節はイースター(復活日)を迎える準備の時という意味合いがあります。

 大斎節第一主日では、毎年イエス様の荒れ野での試練、一般に「荒れ野の誘惑」と呼ばれる福音書の箇所が取られています。マタイやルカは誘惑の内容まで詳しく伝えますが、マルコはいたって簡潔にこの場面を記しています。
 今日の福音書の内容は、2つの部分からなっています。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「イエス、洗礼を受ける」と「試みを受ける」となっています。本日は大斎節第一主日ですので後半について考えていきたいと思います。
 
 この箇所はこう述べられています。
「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。 イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」
 「荒れ野」というのは、聖書の中で特別な場所です。試練の場所であり、誘惑の場所であり、しかし、そこは神様と出会う特別な場所です。「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。」とあります。「追いやった」という言葉は、 この前の新共同訳では「送りだした」と訳されていましたが、原語のギリシャ語では「追い出す」とか「投げ込んだ」とか、そういう強い力を表す言葉で、今回の聖書協会共同訳はかなり原文に忠実に訳しています。そのとき、霊はイエス様を、試練の場、誘惑の場、しかし、神様との出会いの場に投げ込んだのです。
 霊は、洗礼の時イエス様に降り、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である」と宣言された霊です。それは、三位一体の第三位格である「聖霊」です。父なる神様からイエス様に降ってこられたその霊が、今度はイエス様を「荒れ野」に追いやったのです。
 ここでは「試みを受ける」(原語のギリシャ語ではペイラゾー)という言葉に注目します。これは「ペイラスモス」の動詞形です。それをギリシャ語辞典で引くと「試み・誘惑・試練」とありました。同じ言葉がサタンから見れば「誘惑」であり、イエス様から見れば「試練」となります。「誘惑」は神様から離すことであり、「試練」は神様に近づくことです。それが同じ言葉なのです。どちらから見るかで意味が変わるのです。
 
 荒れ野は神的な力と悪魔的な力とが共存する場所であり、その意味で私たちが生きる日常の象徴とも言えます。イエス様が荒れ野で試みを受けたのは、同じ「荒れ野」に生きる私たちを励まし、慰めるためです。イエス様と共に「荒れ野」を生きるとき、試みは神様への信仰を告白する試練に変わります。 
 ちなみに、かつての「主の祈り」の文語訳は「われらを試みにあわせず」となっており、新共同訳のマタイ6章13節でも「わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず」と訳されています。しかし、試みや誘惑は必ずあるものなので、「試みや誘惑にあわせないでください」と祈ることはどうなのかと考えます。現行の「主の祈り」では「わたしたちを誘惑に陥らせず」となっていて、「誘惑があってもそこに陥ることのないように守ってください」の意味と理解します。この方が、今日の箇所のイメージにつながると考えます。
  「また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」とありますが、どういうことなのでしょう?
 イエス様の荒れ野での生活は野獣と隣り合わせであり、同時に神の使いとともに過ごす日々だったのです。野獣とともに、天使とともに生きる。イエス様が試みに直面した場とはそのような場でした。しかも天使たちが仕えていた。つまり神の霊の働きはイエス様を支え続けていたのです。これは私たちの生きる場でも同様であります。
 
 冒頭お話しましたように、大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制と克己に努め、自分を見つめ直すという意味があります。そして、大斎節には、何か目標を決め自分にとって少しきつい試練を与えることをよくします。毎日聖書を読むとか、普段なかなか読めない神学書を精読するとか、誰かを覚えて祈り手紙やメールを送るとか、等です。私は、今年は「祈りを深める」ことを目標に、これらの本を精読することにしました。

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 O・ハレスビーの「祈りの世界」や古今東西の祈りを集めた「祈りのポシェット」です。前者は以前は「祈り」と題されていた本で、私が信仰に入った頃、今から40年ほど前に購入し、最初だけ読んで本棚にしまっていたものです。ハレスビーはノルウェー神学者で「祈り」は英文から訳されたものですが、「祈りの世界」はノルウェー語からの直訳です。この2つを読み比べることで、この本を精読したいと考えました。そして、祈りの実践例として「祈りのポシェット」を丁寧に読みたいと思います。
 説教の冒頭で紹介したレント・カレンダーにはいろいろな活用法がありますが、私は、目標と具体策を記入し、これらの本を精読できたときに色鉛筆で塗るようにしました。

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 皆さんも、この大斎節に何か目標と具体策を決め、実践し、レント・カレンダーでチェックしてみてはいかがでしょうか?

 皆さん、私たちの人生は荒れ野のようです。いろいろな誘惑や試練があります。そこでも神様が支えてくださいますから、主イエス様にならい主の栄光を現すことができるよう、祈りを献げたいと願います。
  大斎節の始まりに当たり、これからイースターまでの約40日間、あらためて自分を見つめ直し、節制と克己に努め、信仰を持ち続けることができるよう祈り求めて参りたいと思います。