オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

大斎始日(灰の水曜日)の礼拝 『隠れた神と心を合わせる』

 本日から大斎節です。高崎の教会で「大斎始日(灰の水曜日)の礼拝」を捧げました。悔い改めのしるしとして額に灰の十字架のしるしを受けました。

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 礼拝の聖書箇所は、ヨエル書2章1節以下とマタイによる福音書6章1節以下。説教では、「灰の水曜日」の由来や大斎節に善行や断食等を行う意味、額に灰の十字架を記す意味等について語りました。

   『隠れた神と心を合わせる』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は大斎始日です。大斎節の始まりの日です。そして、「灰の水曜日」とも言われる祝日・斎日です。年間で2つある断食日(もう1つは受苦日)です。古くは大斎節の始まる日、信徒は罪を悔いたしるしとして粗布をまとい、灰をかぶる習慣がありました。それが「灰の」水曜日の由来です。

  この礼拝式文の最初の「勧め」にもありますように、初代教会では、この期間はその年の復活日に洗礼を受ける人や教会の交わりに回復される予定の人々によって守られてきました。そして、森紀旦主教様が書かれた「主日の御言葉」によりますと、「8世紀から10世紀にかけてこの40日間を、洗礼志願者のみでなく全会衆が大斎節として守ることとなり、悲しみと悔い改めを表すため、初めの日に、前年のしゅろの主日(復活前主日)に渡されたしゅろを燃やした灰を、聖職と信徒の額に付ける習慣ができ(P.108)」たようです。
  大斎節は信仰の業に励むように心がけます。主イエス様の生涯とその苦難に思いを馳せ、自らを省みながら、深い祈りの時を持ちます。節制によって手許に残ったお金を特別な献金(大斎克己献金)として捧げ、教会や、その他助けの必要な人々のために用います。
 
 先ほどお読みしました福音書箇所は、マタイによる福音書の6章からで、「善行、施し、祈り、断食は父なる神にのみ知られるように」との箇所です。旧約聖書はヨエル書2章からで「断食をして主に立ち帰れ」と述べています。なお、この13節が今年の大斎節の聖句として選ばれています。

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 本日の福音書はマタイ福音書6章1節以下で、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」というイエス様の教えです。イエス様は、人の「偽善」を咎めています。3節で「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。」とイエス様は教えています。  
 ここでは、当時のユダヤ人にとって宗教的な3つの行い、施しと祈りと断食が大事であることが述べられていますが、大斎節の始まりにあたってこのことを意識することは大切であると思います。イエス様がこの3つをする時に、「隠れて行いなさい」とおっしゃる。施しも祈りも断食も、「隠れてしなさい」とイエス様は強くおっしゃっておられます。
 なぜ、隠れてしなければならないのでしょうか? それは、神様自身の働きが隠れておられるからと言えます。神様も私たちのために働いておられ、神様も私たちのために祈っておられ、私たちのために犠牲をささげられたのです。神様自身がそれらを隠れた形で行われた。だから私たちもその神様に倣って、隠れて施しや祈りや断食をするということなのです。私たちが隠れている神様の心に合わせて、施しや祈りや断食をする。つまり、神様と心を合わせて行うことに意味があると言えます。それこそが、「富を天に積むこと」になるのだと考えます。

 ところで、本日の礼拝では、この後の嘆願に続いて、一人一人の額に棕櫚を燃やした灰で十字架のしるしを刻みます。どうして額に灰の十字架のしるしをするのでしょうか? 十字架のしるしをするときの言葉はこうです。
「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠を尽くしなさい」
 この前半の「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。」は、「エデンの園の木の果実」を取って食べたアダムとエバに言われた神様のみ言葉(創世記3:19)です。アダムとエバが「エデンの木の果実」を取って食べたことは蛇の誘惑のせいでした。しかしこの蛇の誘惑は人間の欲望を引き出しています。すなわち、人間が自分の欲望を満たすために神様のみ言葉に背いたのです。私たちもこのアダムとエバの遺伝子を受け継いでいます。私たちはちりにすぎないのです。そして、私たちはみな、どんなに長生きしようとも、いつかは必ずちりに帰らなければなりません。この世の命は有限であること、そして自分が死せる存在であることを直視することが、神様と向き合うための始めの一歩です。「私たちはちりにすぎず、必ずちりに帰らなければならない存在である。だからこそ神に立ち帰り、キリストに従うことが大切なのである。」このことを体に、心に刻むために額に灰の十字架のしるしをするのだと考えます。 

 さらに、大斎節は、イエス様が荒れ野で40日間、断食し祈られたことをおぼえます。イエス様はなぜ荒れ野に行き、断食されたのでしょうか? 荒れ野は、水もなくて食べ物もありません。昼は暑く、夜は寒い所です。イエス様はそういう所で人間としての限界を感じられたことでしょう。そして「人間は、ちりであるから、ちりに帰らなければならない」ということを悟ったでしょう。神様がそのことを知らせるためイエス様を荒れ野で断食をさせたのだと思います。淡々とした日常生活を続けるだけでは、このような悟りを得ることは難しいでしょう。そうであれば、私たちもこのような悟りのために、荒れ野に行かなければならないのでしょうか? そのようなことができれば、それが一番良いでしょう。しかし、誰でもそのようにはできません。そこで初代教会は日常生活を続けながら荒れ野を体験することができる方法を用意しました。それがまさに断食と節制、祈りと善行です。
 善行とは、貧しい人への施しを指します。祈るときは、「奥の部屋に入って戸を閉め」なさいとイエス様はおっしゃっています。ユダヤ人は通常、神殿や会堂で立って手を挙げ、人前で祈っていました。しかし、人に見られるために祈るのは間違っていると、イエス様は言っておられるのです。断食については、ご自分の健康の状況等によって実践してほしいと思います。

 皆さん、イエス様は「善行と祈りと断食を形式的にしてはいけない、他人に見せるためにしてはいけない」と命じておられます。私たちキリスト者・信仰者の人生は他人に見せるためにあるのではありません。私たちが善行と祈りと断食などの行いを、隠れた神様と心を合わせてすることに本当の意味があるのです。
 この大斎節で何かをする時に、神様と心を合わせて何をするのがいいか考えて、それを隠れている神様と共に、この40日間(正確には主日を含めた46日間)、行っていけると素晴らしいと思います。この大斎節を神様のみ心にかなうように過ごしていくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。