オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

顕現後第4主日聖餐式 『権威ある新しい教えを聞く』

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 15世紀のフランスで使われていた時祷書(時間ごとの祈りの書)の中にある「汚れた霊を追い出すイエス」の挿絵です。

 本日は顕現後第4主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、申命記18:15-20とマルコによる福音書1:21-28。説教では、「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」箇所から、「権威ある新しい教え」にスポットを当て、チャプレンをしているマーガレット幼稚園の誕生会での園児の発言から気づかされた祈りの重要性やイエス様の教えに耳を傾けること等について語りました。

『権威ある新しい教えを聞く』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第4主日です。福音書箇所は、イエス様の力ある言葉により追い出された汚れた霊の物語です。また、本日の旧約聖書である申命記18章は、イスラエル人がエジプトを出て荒れ野の旅を続け約束の地を目前にした時、指導者モーセが遺言として彼らに語りかけた箇所が取られています。
 本日の福音書の箇所は、先主日の続きのマルコによる福音書1章21節から28節で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」となっています。本日の箇所を解説を入れて振り返ってみます。

『ある安息日に、カファルナウムに着いたイエス様は、会堂に入って教え始められました。「安息日」は、ユダヤ教では金曜日の日没から土曜日の日没までにあたり、労働を休み、礼拝を行うための日です。また、カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町です。さらに、会堂は、シナゴーグと呼ばれ、ユダヤ教の礼拝が行われる場所で、子供たちに律法を教える学校であり、議会や裁判が行われる場所でもありました。そこで、イエス様の「教え」を聞いた人々は非常に驚きました。その教えは、今まで聞いた律法学者のようではなく、権威ある者のようにお教えになったからでした。
 この権威ある教え、直接、神様が語られる教えに対して、いちばん最初に反応したのがこの会堂にいた「汚れた霊に取りつかれた男」でした。その男が「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫びました。汚れた霊とは悪霊のことで、悪魔、サタンの使いと考えられていました。当時の人々は、病気や不幸の原因は、悪霊の仕業だと考えていました。汚れた霊、悪霊は、直感的にイエス様の正体を見抜き「神の聖者だ」と告白したのでした。
 イエス様が、「黙れ。この人から出て行け」と、この汚れた霊に命じ、叱りつけると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。
 それを見た人々は、皆驚いて、「これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」と論じ合いました。
 たちまちイエス様の評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。』
 このような箇所でした。

 この「権威ある新しい教え」とは、どのような教えでしょうか?
 ここで「権威」と訳されたギリシア語は「エクスーシア」という言葉で、元々は「本質(ウーシア)から出て来た」「本質から溢れ出た」という意味合いの言葉です。人々が感じ、経験したイエス様の権威とは、神様の本質から溢れ出る命と力と愛です。神様の命と力と愛を、人々はイエス様に接する中ではっきりと経験しました。自分たちに注がれる神様の力ある愛を経験したのです。そうしますと日本語の堅苦しい「権威」というイメージとはずいぶん違ってきます。

 イエス様は汚れた霊を従わせることによって、彼の教えが「権威」をもった新しい「教え」であることを示しました。イエス様の言葉を、「権威ある教え」として受け取った人々は、イエス様の言葉に悪霊を追い出す力があることを知り、今まで見たことも聞いたこともない「新しい教え」だと受け取ったのでした。
 イエス様の権威は、肩書きや知名度や学識からきている権威ではありません。イエス様の権威は、神様の権威であり、神様ご自身の力が直接現されているものなのであります。

  「汚れた霊」と言われても現代の私たちにはピンときませんが、聖書では、この「汚れた霊」や悪霊、または悪魔やサタンを多くの箇所で描いています。具体的にそれらの正体ははっきりとは描かれていませんが、それらは神様との関係を切り離し、私たち人間に生きる上での苦しみを与えている様々な要因そのものと考えられます。例えば戦争や内戦、身近には様々なハラスメント、そして今、直面している新型コロナウイルスの感染拡大なども「汚れた霊」ととらえることができるかもしれません。私たちはそれらの問題と向き合いつつ、その理不尽さに嘆き、人間の無力さに気付かされます。また、私たちは、人生に疲れ、魂の渇きを覚え、自分自身を見失う時もあります。この会堂にいた男性もそのようなものを背負って生きていたのかもしれません。「汚れた霊」はそのことを指し示しているとも考えられますから、決して現代の私たちと無縁のものとは言えないと思います。
 そして、「汚れた霊」は、イエス様の教え、その権威ある言葉に対して反応し、イエス様の権威ある新しい教えによって追い出されたのです。

 本日の福音書の「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」箇所から、私たちはどうあったらいいでしょうか? 
 少し話は変わりますが、私は玉村のマーガレット幼稚園のチャプレンをしていて、一昨日29日(金)の誕生会で「くつやのマルチン」の絵本を読みました。読み終わって、子供たちに「神様は私たちがどうすると喜んでくださるでしょうか?」と尋ねました。私としては「優しくする」とか「人を助ける」という答えを期待していました。ところが、一番最初の子供の答えは「お祈り」ということでした。私は驚きました。「そうだね」と受け止め「他に?」と聞いたら、次に「助ける」と答えました。「子供はすごい」と思いました。神様はお祈りすることを喜んでくださることを子供から教わったのでした。
 祈りとは神様との対話です。そのためにはまず神様の声を聞く必要があります。今日の「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」箇所で言えば、神様は、私たちがこの「権威ある新しい教え」に耳を傾けることを求めておられ、そうすることを喜ばれるのであります。私たちは、今、改めて本当に権威ある方の教えに聞き従うことができるよう祈って参りたいと思います。