オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

降臨節第2主日 聖餐式 『イエス様の方へ方向転換 』

 本日は降臨節第2主日。高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書40:1-11とマルコによる福音書1:1-8。説教では、当日の旧約聖書イザヤ40章との関係で、この箇所の背景や私たちに求められていること等を述べました。洗礼式が近づいていること等も考慮し、洗礼の意味を教会問答や竹内謙太郎司祭の著書「教会に聞く」から示しました。

      『イエス様の方へ方向転換』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は降臨節第2主日です。アドベント・クランツのろうそくも2本目に火が点りました。この日には毎年、洗礼者ヨハネのことが福音で読まれます。
 今日の福音書箇所は、マルコによる福音書1:1-8です。ここの聖書協会共同訳聖書の小見出しは「洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える」です。
先程入堂の時に歌った聖歌60番は、この箇所を歌った聖歌です。
 本日は、この箇所の前半にスポットを当て、洗礼者ヨハネが説いた「悔い改め」や「洗礼」の意味を中心に、神様と私たちとの関係等について思い巡らしたいと思います。

 今日のマルコによる福音書1:2の「預言者イザヤの書に」ある「見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。彼はあなたの道を整える。」の「私」は天上の神様、「あなた」はイエス様、「使者である彼」は洗礼者ヨハネと考えられます。続いて3節に「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ。』」とありますが、これが洗礼者ヨハネの、使命であり、そのまっすぐにされた道を、イエス様は通って私たちのもとに来られるのです。
 この「主の道を備え、まっすぐにせよ」というのは、先ほど読んでいただいたイザヤ書40:3に書いてあることですが、この道は何の道かと言いますと、元々はバビロン捕囚にある、苦しみの中にあるユダヤ人が、イスラエルに戻るために、神様が整えてくださる道のことを、言っているのです。その道を通って、イスラエルに戻っていくことができる、そういう道です。洗礼者ヨハネが言っている道も、その道を通って、イエス様の救いに与るように、神様が整えてくださる、そういう意味でこのイザヤ書の箇所が選ばれているのだと思います。
 さらにマルコによる福音書1:4に『洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。』とあります。
 洗礼者ヨハネは「裁き」ではなく、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝え、主の到来に備えるように呼びかけたのです。ここの「悔い改め」は原語のギリシア語では「メタノイア」であり、聖書がこのギリシア語を用いる場合、「生き方全体の根本的な転換」を指しています。この語の背景にはヘブライ語のシューブ〈向きを変える・立ち帰る〉があります。聖書の述べる「悔い改め」は「神の業にあわせて向きを変えること」、つまり「神に立ち帰ること」を意味します。さらに言えば、旧約聖書の「悔い改め」は、神様の定めた正しい道である「律法」への回帰でしたが、新約聖書では「神の子イエス様」へと立ち帰ることです。ですから、キリスト教の「悔い改め」とは「悪いことをしました。もうしません」と言うことではなく、イエス様を知りイエス様を信じて従い、自らの人生の中心にイエス様を置くこと、つまり、生きていく方向をイエス様に向けるということなのです。従って「悔い改め」と「信仰」と「イエス様に従う」というのは、同じ事柄の別の側面と言えるのであります。

 では、洗礼とは何でしょうか? 降誕日には洗礼式が予定されています。この機会に私たちも自分が洗礼を受けたときのことに思いを馳せ、洗礼の意味を確認したいと思います。
 祈祷書の中の教会問答(P.262)にはこうあります。
『16.問 洗礼とは何ですか
 答 聖霊の働きによって、わたしたちがキリストの死と復活にあずかり、新しく生まれるための聖奠です』
 これだけでは分かりにくいかもしれません。教会問答を解説した本もあります。 その中の一つが竹内謙太郎先生の「2018年改訂新版 教会に聞く-日本聖公会の教会問答を読み解く-」です。

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     この本は先週の水曜からまた始めた「求道者のための勉強会」のテキストとしています。この本の中にこうあります(P.124)。
『キリストの死と復活にあずかるとは、キリストの死と復活が意味するものが私たちの内に深く入り込み、私たちのものとなり、その結果私たちが主イエス・キリストと一致して、そのご生涯を共にすることを意味しています。主イエス・キリストとの一致と言っておきましょう』
 そうすると、洗礼とは、聖霊によって私たちが主イエス・キリストと一致し、新しく生まれる聖奠(目に見える神の恵み)と言うことになります。端的に言えば、洗礼とは「私たちが主イエス・キリストに結ばれることであり、私たちが神様のものとなる」ということです。洗礼によって、イエス様と結ばれ神様のものになるのであります。それにより、自分自身を中心とする生き方から、主イエス・キリストを中心として生き、考え、行動する生き方へと方向転換されるのです。

 その際、私たちに求められていることは何でしょうか? 
 それは本日の旧約聖書イザヤ書40:8に示されていると考えます。ここに「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」と述べられているように、私たちはこの力ある神の言葉に信頼することが求められているのだと考えます。本日はバイブルサンデーと言われる主日ですが、神の言葉は聖書に書かれており、聖書を読むことで神の言葉、神と出会うことができるのです。
 既にお話したように、「悔い改め」とは、生きる方向をイエス様に向けるということです。しかし、この方向転換は人間の努力で引き起こされるのではありません。神の言葉に信頼し神と出会うことが、それを引き起こすのです。

 皆さん、イエス様の到来と共に、神様の声が響き、聖霊の力に包まれて生きる新しい時代が始まりました。洗礼者ヨハネは先駆けとして、神の子イエス・キリストが現れるその時が目の前に迫っていることを告知しました。洗礼者ヨハネを動かしている神様へと目を上げることが、救いを待ち望む力となります。私たちが神様を見上げ、イエス様の方へ方向転換し、イエス様と結ばれ神様のものになることができるよう祈り求めたいと思います。