オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日聖餐式(公祷) 『疑う者にも近寄り派遣するイエス様』

   本日は三位一体主日聖霊降臨後第1主日です。高崎の教会では今日から公祷を再開し、一種陪餐ではありますが聖餐式を献げることができ、感謝です。
   サーバーやアッシャーも付き、14名の会衆と共に感謝・賛美の祭りを執り行うことができました。できるだけ短時間で行うため、大栄光の歌・旧約聖書詩編・ニケヤ信経は割愛しました。三位一体主日は、7つある主要祝日の一つであり、久しぶりにチャジブルを着用しました。

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 本日の説教原稿を掲載します。福音書箇所はマタイによる福音書28章16節-20節です。6分程度に収めるため、原稿の( )の当日の福音書使徒書・旧約聖書の解説については話しませんでした。イエス様は疑う者にも近寄り、「共にいる」と言って宣教に派遣することを知り、疑いを信仰に変えていただくよう三位一体の神に祈ることを勧めました。八木重吉の詩も取り上げました。


<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 3月8日から休止していた当教会の主日礼拝(公祷)を本日、約3か月ぶりに再開し、皆さんと聖餐式をお捧げできることを喜び、感謝しています。ただ、新型コロナウイルスが完全に終息したわけではありませんので、皆さん共々できる限りの配慮で行うようにしたいと思います。具体的には、先日の教会委員会で策定され、皆さんに送付させていただいた「高崎聖オーガスチン教会感染症対策基本方針」を遵守していきたいと思います。また、主教様から礼拝時間をできるだけ短くするよう示され、そのため週報にありますように、本日の聖餐式では、大栄光の歌・旧約聖書詩編・ニケヤ信経は割愛いたしますので、よろしくお願いいたします。

 さて、今日は三位一体主日聖霊降臨後第1主日です。三位一体主日は、7つある主要祝日の一つで、神の三位一体を祝し記念する日です。「三位一体」とは、「父」なる神と、神の独り「子」であるイエス・キリストと、神の力である「聖霊」が、一体であり、神の本質と同一であることを意味します。今日の主日はこの三位一体の神を信じる信仰を「確認」する日です。

(本日の聖書個所は、福音書はマタイによる福音書28:16-20で、復活したイエス様が山上で11弟子に宣教命令を与える箇所です。19節に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」という句があり、三位一体への言及があります。使徒書はコリントの信徒への手紙二 13:11-13で、13節において祝祷として用いられている「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」というやはり三位一体の神に言及している箇所が選ばれています。旧約聖書は今回は割愛しましたが、創世記の一番最初のところで、本日の福音書でイエス様が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とおっしゃったことの対照として「世の初め」の事が記された箇所が選ばれています。)

 今日の福音書は、マタイの福音書の最後の箇所で、復活されたイエス様が、弟子たちを派遣している場面です。場所はガリラヤの山、山上の説教やイエス様の変容貌(姿が変わられた)のと同じ場所です。
 今回読み返して注目したのは、28章17節から18節です。弟子たちは『イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』とあります。 
 11人の弟子たちはガリラヤの山でイエス様にお会いし、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは礼拝すると言うことです。信仰を持って行う行為です。しかし、弟子たちの中に疑う者もいたというのです。疑う者がいてもイエス様は近寄られたのです。そして、19節にあるように「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言って、疑う者も疑わない者も一緒に送り出されたのでした。
 イエス様は疑いを完全に乗り越えた者だけに近づくのではありません。疑いを残す者にも近寄るのだと気づかされました。信仰が確かでない者にもイエス様は近づきます。イエス様は疑う者にも近寄り、そのような弟子を宣教に派遣するのであります。そして20節のように「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とおっしゃいます。だから宣教しなさいと。
 信仰の薄い彼らが働けるのは、イエス様が彼らと「共にいる」からであり、イエス様が彼らと一体となって働いてくださるからです。弟子とはイエス様と共に働く者のことであります。

 私はこれまで、この箇所を19節・20節にある「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」という大宣教命令に目を奪われていました。しかし、イエス様がそう言われるのはその前に、イエス様が疑う者にも信仰の薄い者にも近づいて「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されているからであり、「イエス様が共にいてくださること」をマタイは最後に最も伝えたかったのだと気づかされました。

 このことで、思い浮かぶ詩があります。先主日にもお話しした八木重吉の詩で、彼が亡くなる3年前に自身で編んだ「貧しきものの歌」の中にあるこういう詩です。(定本八木重吉詩集P.215から読む)

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 きりすと/ われにありとおもうはやすいが
 われみずから/ きりすとにありと
 ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ
 きりすとが わたしをだいてくれる
 わたしのあしもとに わたしが ある
 イエス様が私を所有してくださいます。私自身がイエス様と一体となるまでには、まだ遠い道のりがあります。しかし、自分に固執したままの私をイエス様は包み込んでくださるのです。

 今日は三位一体主日聖霊降臨後第1主日です。聖霊降臨の1週間後に、父と子と聖霊なる三位一体の神を信じる信仰を「確認」する日です。復活したイエス様は、信じ切れない信仰の薄い私たちのところに近寄ってきて、「いつも共にいる」とおっしゃって送り出しておられます。私たちの疑いを信仰に変えていただくよう、そしてこの信仰に堅く立って生き、コロナウイルスをはじめすべての災いに打ち勝つことができるよう、三位一体の神に祈りを捧げたいと思います。