オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第13主日 聖餐式『神のことを思う人生を歩む』

 今日は聖霊降臨後第13主日。高崎で聖餐式を捧げました。
聖書個所は、ローマの信徒への手紙  12:1-8とマタイによる福音書16:21-27。説教では「イエス様の受難予告」の箇所を「十字架を背負うこと」をキーワードに考察し、「神のことを思う」よう勧めました。上毛かるた内村鑑三の絵札に十字架があることから、彼の人生と「心の灯台内村鑑三」とかるたの札に読まれている意味についても思い巡らしました。

『神のことを思う人生を歩む』
 
 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日の福音書はマタイによる福音書16:21-27、先週の「ペトロの信仰告白」に続く「イエス様の受難予告」の箇所です。
 今日の箇所を振り返ってみましょう。
 ある時、イエス様は、弟子たちに向かって、ご自分が、これから、エルサレムに向かって行き、そこで、長老・祭司長・律法学者たちから、多くの苦しみを受けて、殺され、3日目に復活することになっていると、弟子たちに、打ち明けられました。
 すると、ペトロは、イエス様を、わきの方へ連れて行って、いさめました。
 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。
 これに対して、イエス様は、ペトロの方を振り向いて、
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われました。
 ペトロをサタン、「私の邪魔をする者」と言っています。ペトロは、先主日の箇所で「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表しましたが、その内実は一般的なメシア(救い主)、つまり、抑圧されているユダヤの民を解放してくれるこの世の救済者という理解だったのではないでしょうか? それをイエス様は「人間のこと」と言ったのだと思います。それに対して「神のこと」とは何でしょうか? それは父である神様の「み心」。つまり、神様は、ご自分の独り子であるイエス様の死と引き替えに、すべての人々に救いを与えようとしておられる。その「神の救いの計画」のことを「神のこと」と言ったのではないかと思います。
 そして、24節です。イエス様は、弟子たちに言われました。
  『それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』
  私について来たいのなら、自分の欲望や自己満足を捨て、与えられた困難や災難などから逃れずにそれを背負いなさい。それが、私に従うということだと言っているように聞こえます。
 続けてイエス様はおっしゃいます。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と。
 ここの「命」はギリシャ語原文は「プシュケー」(地上の命、心)でした。財産や地位などこの地上での価値を得たいと思う者はそれを失いますが、イエス様のために地上の命を失うことは神様が永遠の命という賜物を与えるという意味で、本当の自分の心を得ることになるのだと考えます。
 永遠の命を、心を、得たい者は、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、イエス様は、言われたのです。
 27、28節では世の終わり(終末)についての言葉が伝えられています。最後の審判では、それぞれの行いによって報われるということです。

 今日の箇所を通して神様が私たちに示し、求めておられることは何でしょうか?
それには先ほど読んでいただいた使徒書が参考になります。ローマの信徒への手紙12章の冒頭1・2節にこうあります。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
 神様のために自分を捧げること、そして、この世、つまり地上の命に倣うのでなく、自分を変えていただき神に喜ばれることを行うことをパウロは勧めています。言い換えれば、「人のこと」を思うのでなく「神のこと」を思うことを求めておられるのです。その具体的な姿として示されているのが、「自分を捨て十字架を背負うこと」なのだと思います。

 私にとって十字架を背負うことで思い浮かべる絵、というか「絵札」があります。それは群馬県人なら誰でも子供の頃に親しんだ上毛カルタ。その上毛カルタ内村鑑三の絵札です。

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 左上に、まるで背負っているかのように十字架があります。小学校低学年の時に「心の灯台内村鑑三」と意味も分からず唱えていましたが、この絵札はキリスト教と縁のない家庭で育ち、幼稚園も小学校も公立だった私にとって、初めて目にした十字架だったかもしれません。

 内村鑑三は最初の妻を不貞とされる理由で離婚し(真偽は定かではありません)、2番目の妻には先立たれ、18歳の次女ルツ子を亡くしました。内村鑑三で有名なエピソードに「不敬事件」というものがあります。内村が一高の教員時代、教育勅語奉読式で勅語に記された明治天皇の署名に対して最敬礼をせず、軽く会釈をするだけだったことが天皇に対する「不敬」であるということで大きな批判を浴び、教員を辞めなくてはならなくなりました。その後も非難が続きました。正に、十字架を背負った人生だったと言えます。
 しかし、不敬事件で言えば、このことで内村の名は天下に有名となり、彼に文筆一本で生きていくことを余儀なくさせ、結果として日本最初の聖書雑誌である月刊「聖書之研究」を創刊させ「基督信徒の慰め」や「余はいかにして基督信徒となりしか」等の名著が生み出されることになったのです。そして、日本独自の無教会主義キリスト教を創設し、その門下から多くの教育者や政治家などが輩出したのでした。

 「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」のみ言葉について、私は今こう思います。
 一般に自分の十字架を背負うと言いますと、自分の境遇や困難、災難など自分に与えられたそれぞれの苦しみを負うというイメージがありますが、イエス様はそれを求めておられるのでしょうか? 原文を直訳すると「彼の十字架を取り、私に従いなさい」でした。もし、それぞれの十字架なら「彼らの」となるのではないでしょうか?
 私はこの十字架は「自分の十字架」であると同時に「イエス様の十字架」ではないかと考えます。自分の十字架をイエス様も背負って下さる、または最初、自分の十字架だったものがだんだんとイエス様の十字架に変わっていく、そのようなイメージを持ちます。そして、イエス様の十字架に照らされて自分の十字架が癒やされ神の恵みに満たされていく。そんなことを思います。
 上毛カルタ内村鑑三の絵札も、左上の十字架の明かりがだんだんと広がり内村を包んでいくような絵になっています。

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 左が1947(昭和22)年の初版で右の現行の絵札は1968(昭和43)年以降のもので、私のイメージにあったのは左のものでした。
「心の灯台内村鑑三」の意味について、群馬県が出した本『「上毛かるた」で見つける群馬のすがた』では『鑑三の戦争反対の考えや生き方を大切なこととして、日本の将来を導く明かりにたとえ、「心の燈台」と表現し、その人格をたたえた札です。』とあります。
 しかし、私は「心の灯台」はイエス様、もっと端的にはイエス様の十字架であり、それに照らされて生きる恵みを宣べ伝えた内村鑑三、というのがこの札の意味であると考えます。

 皆さん、イエス様は、私たちに、人のことを思うのでなく神のことを思うことを求めておられます。神のことを思う者は「自分を捨て十字架を背負うこと」になりますが、十字架を自分一人で背負うのではありません。イエス様も背負ってくださり、それはだんだんとイエス様の十字架に変わり、イエス様の十字架に照らされて自分の十字架が癒やされ神の恵みに満たされていくのであります。
 私たちが自分を捨て十字架を背負いイエス様に従い、心の灯台であるイエス様に照らされる恵みにより、神様のことを思う人生を歩むことができるよう祈り求めて参りたいと思います。