オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「ボブ・ディランの音楽と信仰(2)」

    前回はボブ・ディランのデビュー時、特にPPMもカバーした曲「風に吹かれて」にスポットを当てて「ボブ・ディランの音楽と信仰」について私見を述べました。
 ところで、若い頃のディランの音楽と生き様を追ったマーティン・スコセッシ監督のドキュメンタリー「ノー・ディレクション・ホーム」を最近またDVDで見ました。

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 これには、デビューから1966年くらいまでのボブ・ディランの貴重な証言や、未公開ライブ映像などが収録されています。ディランがエレキギターを持ったフォークロックの「ライク・ア・ローリング・ストーン」発表時の混乱及びブーイングも如実に描かれています。

 その後のディランは「見張塔からずっと」「天国への扉」他多数の楽曲を発表し、ライブ活動も継続し、1971年のジョー・ハリソンが主催した「バングラディシュ・コンサート」にも参加しました。そして、70年代後期、ディランは明確にキリスト教のテーマを含んだ何枚かのアルバムを収録しました。これらのアルバムは、ディランが「ボーンアゲイン(新生)」した福音的回心の経験後に発売されました。それらは『スロー・トレイン・カミング』『セイヴド』『ショット・オブ・ラブ』というキリスト教(ゴスペル)三部作と言われる3枚です。
 最初の79年のアルバム『Slow Train Comming(鈍行列車がやってくる)』において、既にかなり明確に福音派の信仰を持っていたことが分かります。このアルバムは音楽的にも優れ、ディランにとって初のグラミー賞(最優秀男性ロック歌手)を受賞しています。

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 このアルバムの1曲目の「Gotta Serve Somebody(誰かに仕えなければ)」には、信仰の決断への招きに近いと思われる歌詞を含んでいました。ディランは、「You're gonna have to serve somebody.(君は誰かに仕えなくちゃいけない)」「It may be the devil or it may be the Lord. But you're gonna have to serve somebody.(それは悪魔かもしれないし、主かもしれない。しかし君は誰かに仕えなくちゃいけない)」と歌いました。そこには、ディランが新しく見いだした信仰を探求していることが感じられます。
 なお、このアルバムのライナーノート等に、ユダヤ教からキリスト教福音派)改宗にいたる出来事が記されていました。それによると、1978年11月のカリフォルニア州サンディエゴでのコンサートの折り、体調不良を心配した観客から受けたプレゼントの銀の十字架のネックレスに指を触れた時、イエス様が現れディランにの上に手を置くという神の啓示を受け、それから聖書をむさぼるように読み教会に通い始め洗礼を受けた、とのことでした。

 次のアルバム『Saved(救われた)』(80年)では、さらに明確に自身のキリスト教信仰を前面に出しています。音楽的にも女声コーラスを従えてディラン流ゴスペル・ロックとでもいう内容になっています。
 アルバムのジャケットも、ミケランジェロ天地創造の「人間の創造」や救いを求める多くの人の手を思わせる、これまでにないものとなっています。

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  このアルバムのタイトルナンバー「Saved(救われた)」の曲は下のアドレスから聞く(見る)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=x1OjsJy2NGg&feature=youtu.be

 

歌詞はこうです。
 
「I was blinded by the devil
 Born already ruined
 Stone-cold dead
 As I stepped out of the womb
 By His grace I have been touched
 By His word I have been healed
 By His hand I've been delivered
 By His spirit I've been sealed

 I've been saved
 By the blood of the lamb
 Saved
 By the blood of the lamb
 Saved
 Saved

 And I'm so glad
 Yes, I'm so glad
 I'm so glad
 So glad
 I want to thank You, Lord
 I just want to thank You, Lord
 Thank You, Lord

 By His truth I can be upright
 By His strength I do endure
 By His power I've been lifted
 In His love I am secure
 He bought me with a price
 Freed me from the pit
 Full of emptiness and wrath
 And the fire that burns in it

 I've been saved
 By the blood of the lamb
 Saved
 By the blood of the lamb
 Saved
 Saved

 And I'm so glad
 Yes, I'm so glad
 I'm so glad
 So glad
 I want to thank You, Lord
 I just want to thank You, Lord
 Thank You, Lord

 Nobody to rescue me
 Nobody would dare
 I was going down for the last time
 But by His mercy I've been spared
 Not by works
 But by faith in Him who called
 For so long I've been hindered
 For so long I've been stalled

 I've been saved
 By the blood of the lamb
 Saved
 By the blood of the lamb
 Saved
 Saved

 And I'm so glad
 Yes, I'm so glad
 I'm so glad
 So glad
 I want to thank You, Lord
 I just want to thank You, Lord
 Thank You, Lord


訳してみます。

「私は悪魔により盲目にされ
 ただでさえ堕落して生まれ
 石のように冷たく死んでいる
 子宮から出たままで
 神の恩寵に触れて
 神の言葉に癒されて
 神の手に解放されて
 神の魂に認められて

 私は救われた
 子羊の血によって
 救われた
 子羊の血によって
 救われた
 救われた

 私は本当に嬉しい
 そう、私は本当に嬉しい
 私はとても嬉しい
 とても嬉しく思う
 感謝したい、主よ
 私はただ感謝したい、主よ
 主よ、ありがとう

 神の真理によって私は公正に
 神の力により私は耐え
 神の能力によって私は高揚し
 神の愛で私は不安がなく
 神は私に対価をもたらし
 地獄から私を自由にし
 空虚と憤怒を満たす
 そしてその中で燃え盛る炎

 私は救われた
 子羊の血によって
 救われた
 子羊の血により
 救われた
 救われた

 本当によかった
 そう、本当によかった
 私は本当に嬉しい
 本当に嬉しい
 感謝したい、主よ
 私はただ感謝したい、主よ
 ありがとう、主よ

 私を救わない誰もが
 誰も立ち向かわないだろう
 最終的に私は沈んでいき
 だが神の慈悲で私は寛大に扱われ
 労働にではなく
 求められた神への信仰によって
 長い間私は妨害されて
 長い間私は行き詰まって

 私は救われた
 子羊の血で
 救われた
 子羊の血によって
 救われた
 救われた

 そして私はとても嬉しい
 そう、とても嬉しい
 私はとても嬉しい
 とてもありがたい
 感謝したい、主よ
 私はただ感謝したい、主よ
 主よ、ありがとう」

 自分が神に救われた喜びを率直に歌っています。「救われる」という言い方は私たちはあまり使いませんが、福音派の方は「神を信じ洗礼を受け、イエス様を救い主として受け入れる」などの意味でよく使われます。ディランはそれを、自分のできる表現手段として音楽により表明しました。それには次の聖句が念頭にあったのではないかと、私は思います。
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ロマ書10:10)です。
 そこでディランは「Saved」という曲を通して、信じて救われた喜び、感謝を表したと考えます。
 3作目の『Shot of Love(愛の銃撃)』(81年)も、キリスト教のイメージを含んでいましたが、それは幾分弱まりました。その後2,3年するとディランのキリスト教信仰は弱まったと考えられています。ディランのキリスト教への熱狂は過ぎ去ったようですが、ずっと神様はディランを忘れず、み守り・導きを与えてきたと私は考えます。