オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨日 私祷『聖霊を受け「神の道」に従う』

本日は聖霊降臨日、3大祝日ですが、私祷(み言葉の礼拝)を捧げました。福音書箇所はヨハネによる福音書20章19節-23節です。今回はその後半を中心に思い巡らし、聖霊により罪を赦す者に変容すること、各自に与えられた賜物を生かし「神の道」に従うことについて話しました。八木重吉の詩「神の道」にも言及しました。次主日からは、公祷となり一種陪餐ではありますが聖餐式を献げる予定です。

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聖霊を受け「神の道」に従う

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 教区から5月27日付けで「新型コロナウイルス感染症対応について<第6信>」が出され、次主日6月7日より礼拝(公祷)を再開するよう、その際、感染拡大防止に細心の注意を払い、より適切な対策を教会委員会で協議して実施するよう示されました。本日午後5時からの教会委員会において、当教会で主日礼拝(公祷)において配慮する内容等を示した基本方針が策定される予定です。

 さて、今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の3大祝日の一つです。聖霊降臨日はイエス様の復活から50日目に聖霊が降ったことを記念する日です。明日からは聖霊降臨後の節に入ります。   今日の福音書箇所は、ヨハネによる福音書20章19節-23節です。イエス様の十字架の三日後、マグダラのマリアに復活の姿を見せたその日の夕方、エルサレムのとある家の部屋に弟子たちが密かに集まっているところに復活した主イエス様が現れた箇所です。

 今日は、今回与えられている福音書箇所の後半を中心に思い巡らしたいと思い
ます。ヨハネによる福音書20章21節・22節をご覧ください。
『イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』
 復活した主イエス様に会えて喜んでいる弟子たちにイエス様は、2回「あなたがたに平和があるように」と言います。おそらくイエス様はアラム語で「シャローム」とおっしゃったと考えられます。 
 ユダヤ人の間で言う「シャローム(平和)」は普通の挨拶です。イエス様がおっしゃった1回目の「シャローム」は挨拶かもしれませんが、2回目の「シャローム」は単なる挨拶以上の意味を込めて「平和が」と述べたのでしょう。ここでの「シャローム(平和)」は、キリストによって人間にもたらされる祝福や救いのことであると考えられます。これまで父である神に派遣された者としてイエス様が地上で行ってきた祝福・救いを、今度は弟子たちが行っていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、その使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力を受けなさいと言うのです。
 「聖霊」とは何でしょうか? 「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも本来、「風」や「息」を意味する言葉です。聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されています。先ほど読んでいただきました使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」(2節)や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がそのしるしです。

 23節をご覧ください。『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」』。
 イエス様は他人の罪を赦すことを命じておられます。しかし、私たちはなかなか人の罪を赦すことはできません。そんな私たちにイエス様は息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言われます。人の罪を赦すことができるようにイエス様は聖霊を受けるよう促しておられます。聖霊によってもたらされる罪の赦しです。人の罪を赦すことは人間の力でできるのものではありません。聖霊によって神が私たちにその権能をお与えくださるのです。

 弟子たちは、この時点で新たに生まれました。聖霊が共におられるだけではなく、うちに宿ってくださったのです。この聖霊との関係によって、父なる神と交わることができるし、これによって、主イエス様と同じ働きを行うことができるようになるのです。
 それはどんな働きでしょうか? 
 先ほど読んでいただいた使徒書の「コリントの信徒への手紙一12:4-13」で、聖霊が働いて与えられるいろいろな賜物が示されています。それらの賜物の目的については7節で「 一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」と言っています。「全体」とは信者全体、すなわち教会のことです。信者一人一人いろいろな賜物を神から与えられているのは、それを通して教会に奉仕し社会に働きかけるためだと言うのだと思います。
 聖霊は各自の性格や個性、才能などに応じて私たちに賜物をお与えになります。私たちはそれらを通して教会に仕え、社会に働きかけていくことを神様はお望みなのだと考えます。それが一人一人に与えられた「神の道」だと思います。
 
 八木重吉の「神の道」の詩を思い浮かべます。私は新教新書の「神を呼ぼう」の詩集(見せる)でこの詩を知りました。 

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  「神の道」
 自分が この着物さへも脱いで 乞食のようになって
 神の道にしたがわなくてもよいのか
 かんがへの末は必ずここへくる

 今日は聖霊降臨日です。聖霊により罪の赦しの権能と派遣の使命を与えられた信仰共同体である教会が誕生した日です。私たち一人一人も聖霊によって新たに生かされたことを喜び、人々の罪を赦す者に変容することができるよう、そして各自に与えられた賜物を生かし「神の道」に従うことができるよう、聖霊の助けを祈り求めたいと思います。