オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

復活節第7主日(昇天後主日)私祷「イエスの祈りに倣う」

 公祷再開に向けて、本主日から「み言葉の礼拝(私祷)」を捧げることにしました。また、感染リスクを減らすため、特祷・聖書日課詩編については当日の分を印刷したB4一枚の別紙を使うようにしました。
  福音書の箇所はヨハネによる福音書17章1-11節。説教では「イエスの祈り」について「永遠の命」と「とりなし」にスポットを当てて話しました。神を崇め、神に自分の魂を委ね、心を合わせて熱心に祈るとともに、生涯、神とイエスを信じて受け入れ、互いに愛し合うという掟を守るよう祈り求めることを勧めました。

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     イエスの祈りに倣う

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 群馬県では、緊急事態宣言が14日(木)に解除されましたが、当教会では、未だ公祷は休止しています。21日(木) には近畿圏が解除され、明日25日に予定されている国の会議において埼玉を含めた5つの特定警戒都道県がどうなるか、注視してるところです。
 公祷再開に向けて、本主日から「み言葉の礼拝(私祷)」を捧げることにしました。また、感染リスクを減らすため、特祷・聖書日課詩編については当日の分を印刷したB4一枚の別紙を利用していただいております。

 この前の木曜日に私たちは昇天日の礼拝を捧げました。そして来週の日曜日が聖霊降臨日となります。今日私たちは、昇天日と聖霊降臨日の間にいます。
 今日の福音書箇所は、ヨハネによる福音書の17章1節から11節で、弟子たちにした告別説教と言われる別れの言葉の最後、十字架の直前にイエス様が父なる神に祈られた箇所です。新共同訳聖書では「イエスの祈り」と表題があります。このヨハネ福音書17章はかつては「大祭司の祈り」と呼ばれていました。それはイエス様が人間のために神にとりなす祈り(代祷)をしたからと思われます。

 1-5節ではイエス様の栄光(神の臨在)により人々に永遠の命が与えられることが語られます。
 3節に、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。
 永遠の命とは、「神の国」、「天国」と同じ意味です。ここの「知る」は、ギリシャ語で、「ギノースコー」という言葉が使われています。この言葉は、単なる知識ではなく、神とキリストとの人格的交わりを意味します。神を「知る」とは、神様についての知識を持つことではなく、神様を信じ、その信仰にふさわしく生きることを表します。ヨハネの手紙一では、「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(Ⅰヨハネ2:4)と述べられています。キリスト者は神とキリストを「知って」生きる者であります。「神を知る」とは、神が人を愛したように、互いに愛し合うという掟を守って生きることと言えます。
 ですから、「永遠の生命」とは、父である神と、子であるイエス・キリストを、信じて、受け入れ、互いに愛し合うという掟を守って生きることです。そのことを知らせるためには、栄光の神の子が、苦難と十字架の死を通らなければなりませんでした。その時が来ました。イエス様は、今、その使命を果たし、父である神様のもとに帰り、再び、栄光の座に着こうとしているのであります。

 イエス様が不在となる心細いときに、今日の福音書が与えられています。今日の福音書の6節以降で、イエス様は私たちのために神様に祈ってくださいます。11節には「わたしは、もはや世にはいません」とあります。もうすぐ自分はいなくなってしまう、そのときに「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」とイエス様は祈ってくださいます。これが私たちを思うキリストの、祈りの言葉です。イエス様がいない、そのことで心細く思うかもしれない、あるいは絶望に落ち込むかもしれない、そのような私たちの心を先取りして、イエス様が神様に祈ってくださるのです。さらにその目的は何かと言えば「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」 とあり、父なる神とイエス様が一体であるように、弟子たち、イエス様に属する者たちが一つとなるためにイエス様は御名(神の名)によって守護を祈っておられるのです。
 
 そのように私たちのために祈ってくださるイエス様の弟子として、私たちはどうあればいいのでしょうか? 
 それは本日の使徒書や使徒言行録に示されています。ペトロの手紙一の4:16に「キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」とあり、19節では「真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」とあるように、神様を崇め、神様に自分の魂を委ねることであります。また、使徒言行録の1:8以下で、イエス様が天に昇られた後に、弟子たちが一つの部屋に集まってしたようにすることと言えます。14節にこうあります。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」
 これが信徒、そして信仰共同体である教会の姿だと思います。心を合わせて熱心に祈ることです。

 今の現実の私たちの日常生活ではコロナウイルスの感染防止のため、三密(密閉・密集・密接)を避ける、ソーシャル・ディスタンスを取るなどに配慮していますが、ここでのイエス様の祈りは姿勢としてはまったく逆と言えます。神様との人格的な交わりを勧め、弟子たちが一つとなることを祈っています。日常生活において三密は避けソーシャル・ディスタンスを取っても、信仰生活においては神様との密接な関係を維持し、こういう言葉があるか分かりませんが神とのスピリチュアル・ディスタンス(霊的な距離)を近くに取るということに努めたいと思います。

  皆さん、私たちキリスト者の模範はイエス様です。十字架の直前にイエス様はご自分に神様が栄光を与えて下さるように、また、神様が守って下さるよう人間のために祈っておられます。私たちも神様を崇め、神様に自分の魂を委ね、心を合わせて熱心に祈りたいと願います。そして、生涯、父である神と子であるイエス様を、信じて受け入れ、互いに愛し合うという掟を守って生きることができるよう祈り求めて参りたいと思います。