オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

復活節第6主日私祷「イエス様につながっていく」

本日は復活節第6主日
 本日も高崎の教会でアンテ・コミュニオン(聖餐式前半のみ・私祷)を捧げました。
  福音書の箇所はヨハネによる福音書15章1-8節。説教では「実を結ぶためにつながる」ことをテーマと考え、15:5を中心聖句として話しました。また、「イエス様につながり実を結ぶ」という恵みを多くの人と分かち合うために、管区からの小冊子「11日間の祈りのしおり」を活用するよう勧めました。

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エス様につながっていく
<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 群馬県では、新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言が14日(木)に解除されました。新たな感染者が群馬県は0の日が続くなど、よい方向に向かっているようにも思いますが、依然気が抜けない状況であると言えます。

 さて、今日は復活節第6主日です。復活節は復活日(イースター)から聖霊降臨日(ペンテコステ)までの50日間ですが、本日は復活日から36日目、今週の木曜(21日)が40日目で昇天日です。その日には10:30から本日と同様の私祷(Private Prayer)を捧げたいと思っております。 
 本日、復活節第6主日福音書の箇所は、先主日と同様に、ヨハネによる福音書のイエス様の告別説教といわれる箇所から取られています。
  今日の箇所は15章1-8節で、イエス様がぶどうの木、私たちはその枝、そして父なる神様が農夫にたとえられています。この箇所で印象的なのは「つながっていなさい」または「つながる」というイエス様の言葉です。1節から8節までで9回も使われています。何のためにつながるのかということが「実を結ぶ」という言葉で説明され、これも7回出てきます。「実を結ぶためにつながる」ということが、本日の箇所のテーマではないかと考えられます。

 5節にこうあります。
『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』
 イエス様は別れを前にした弟子たちに語っています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。イエス様はご自分のことを「ぶどうの幹である」とおっしゃっているのではありません「ぶどうの根である」と言っているのでもありません。「わたしはぶどうの木である」とおっしゃっているのです。つまり、根も幹も枝も含めたぶどうの木全体であると言うのです。そして弟子たちに「あなたがたはその枝である。」とおっしゃっています。つまり「あなたがた枝は、ぶどうの木である私の一部である」とおっしゃっているのであります。 
 ここで「つながる」と訳されているこの元々のギリシャ語は「メノー」という言葉です。先主日福音書箇所の「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」
ヨハネ14:2)の「住む」も原文は「メノー」でした。「メノー」の本来の意味は「ある場所や状態に留まる」ということです。そこから「つながる、住む、宿る、離れないでいる」という訳になります。「人がわたしにつながって(メノー)おり、わたしもその人につながって(メノー)いれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とはキリスト者とイエス様との深い交わりを表しています。
 イエス様は、ここで弟子たちに「ぶどうの枝になりなさい」と言っているのではありません。「あなたがたはその枝である。」と断定されているのです。そして、この言葉はイエス様の弟子である私たちにも向けられています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。このままイエス様につながっていれば豊かに実を結ぶことができるのです。これこそ福音(よい知らせ)です。
 6節に「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」と脅かしのようにとらえかねない言葉があります。これはどういうことでしょうか? この前後をよく読みますと、4節の「わたしにつながっていなさい」には「わたしもあなたがたにつながっている」という言葉が続いています。同様に、5節でも「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば」と語られ、7節では「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」と述べられています。つまり、「わたしにつながっていなさい」という命令には、「わたしもあなたがたにつながっている」からというイエス様の慰めの言葉が付いているのです。単に、「イエス様につながりなさい」と言っているのではありません。先に、「イエス様がわたしにつながっている」のです。

 具体的に、私たちはどうしたらいいでしょうか? 日々聖書を読み、み言葉を聞き、祈る、礼拝に出席する、教会に連なる、そのようなことが考えられます。信徒である私たちは、聖奠(サクラメント)である洗礼と聖餐でつながることができます。特に聖餐式での陪餐、イエス様の体とイエス様の血をいただくことで、私たちは養われ、育てられるのであります。現在、毎主日の私祷では聖餐式の前半のみで、後半のそのことに預かれないでいますが、1日も早く聖餐式全体の公祷(Common Prayer)を捧げることができることを、切に願っています。

 では、自分たちがイエス様につながればそれでいいのでしょうか? そんなことはありません。私たちは「イエス様につながり実を結ぶ」という大きな恵みを多くの人と分かち合いたいと願います。その意味で、先週水曜に主教様のショートメッセージとともにお送りした管区からの小冊子「11日間の祈りのしおり」を活用することをお勧めします。受付にも置いておきました(見せる)。

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 この祈りの主に目指すことは、個別におぼえる5人がイエス様とつながるということです。3ページ目に5人の名前を書く欄があります。私は既に5人決めて名前を書きました。ぜひ皆さんもイエス様につながってほしい友人や家族などの名前を記入し、昇天日から聖霊降臨日までの11日間をこの冊子と共に、祈って過ごしてほしいと思います。

 皆さん、私たちはぶどうの枝であり、ぶどうの木であるイエス様の一部であります。御言葉を聞き、祈り、聖餐に預かるなどの恵みに感謝し、多くの人がイエス様につながっていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。