オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

フェリーニ「道」とキリスト教

   先主日の説教で触れたフェリーニが監督した映画「道」について、当日はその日のテーマとの関係で話しましたが、今回はこの作品をキリスト教の観点から考察してみたいと思います。
 「道」は1954年のフェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画。フランシスコ教皇がインタビューで一番好きな映画と答えていました。1956年のアカデミー外国語映画賞を受賞しました。日本公開は1957年で、日本でも大ヒットし、その年のキネマ旬報外国映画ベストテン第1位を獲得しています。
 純粋無垢な心の持ち主であるジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)と、粗暴で狡猾な大道芸人ザンパノ(アンソニー・クイン)が様々なところを巡って織りなすロード・ムービーです。
 今回、私は次のDVDで見直しました。

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 フェリーニは子供の頃、厳格な神学校に入れられましたが、9歳のある日、脱出してサーカス小屋に入り込み、一夜を過ごしたことがあったらしい。そのような経験が作品に反映していると考えられます。
 フェリーニの妻、ジュリエッタ・マシーナフェリーニについてこう語っています。「彼は、一人の人間、一対の男女に目を向けるやり方で、神の救いについて語っている」と。その代表的な作品がこの『道』と言えます。
フェリーニ自身は「神の愛は信じぬ者にも及ぶ」という思いで作ったと言っています。
 
 今回はおもに3つのシーンを取り上げたいと思います。
 一番有名なシーンは、「私は何の役にも立たない女よ」と言うジェルソミーナに、曲芸では羽を背中に付けた綱渡り芸人が言って聞かせる場面です。
『綱渡り芸人…「おれは無学だが 何かの本で読んだ。この世の中にあるものは何かの役に立つんだ。例えばこの石だ」
 ジェルソミーナ…「どれ?」
 綱渡り芸人…「どれでもいい」 石ころを拾う。 
 綱渡り芸人…「こんな小石でも 何か役に立ってる」
 ジェルソミーナ…「どんな?」
 綱渡り芸人…「それは… 。おれなんかに聞いてもわからんよ。神様はご存知だ。お前が生れる時も死ぬ時も人間にはわからん。おれには小石が何の役に立つかわからん。何かの役に立つ。これが無益ならすべて無益だ。空の星だって同じだとおれは思う。お前だって何かの役に立ってる。アザミ顔のブスでも」
ジェルソミーナはその小石を貰う。小石をじっと見て頷く。小石を握り締め、
 ジェルソミーナ…「私がいないと 彼は独りぼっちよ」…。』

 この何かの本とは聖書、小石が役に立っている例としては、旧約聖書サムエル記上17:40、49・50で、ダビデペリシテ人の大男ゴリアトを、小石と石投げ紐を使って倒したことではないかと思います。聖書本文は以下の通りです。
『(ダビデは)自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を5つ選び、身に着けていた
羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石1つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。』(サムエル記上17:40、49・50)

 また、「小石も何かの役に立っている」というのは、「すべての被造物は有益である」という「生命への畏敬の念」に共通する発想と共に、何かを為すことよりも「存在そのものに意味がある」という、「doingでなくbeing」に意義があるということもこの箇所から感じます。

 次に、先主日の説教で取り上げた箇所、女子修道院でのシスターとの会話のシーンです。
『若いシスターが聞きます。「あちこちへ巡業するのは、お好き?」
 ジェルソミーナ「あなたはここばかり?」
 シスター「私たちも移るのよ、2年ごとに僧院を変わるのよ、ここは2つ目 なの。」
 「どうして?」とジェルソミーナが聞くと、シスターがこう言います。
 「同じ所に長くいると・・・離れづらくなるから。住む土地に愛情がわいて 一番大切な神様を忘れる危険がある。わたしは神様と二人連れで方々を回る わけなの。」』
 説教では「神とともに歩む道」というテーマだったのでここまでを引用したのですが、実はその後にこの会話がありました。
『ジェルソミーナ「人によっていろいろあるのね」・・・』
 ここから、神とともに歩む「道」と男と女が歩いていく「道」という両方の意味が込められているのではないか、と思いました。

 そして、映画の最後のシーンです。
『数年後、相変わらずのどさ回りを続けるザンパノが、ある港町に現れます。そこで、ジェルソミーナが愛唱していたメロディーを、村の洗濯女が歌っているのをふと耳にします。ザンパノはその歌を誰から聞いたと女に尋ね、女は答えます。5年前、この地に流れてきて、毎日泣き続けながら死んでいった女が、気分のいい時に時折ラッパで吹いていたのだと・・・。
 その夜、乱酔したザンパノは海辺へ行き、天を仰いで叫びます。
 「一人ぼっちだ・・・俺にはだれもいねえ!」
 暗い砂浜にひざまづき、彼は心の奥底から号泣するのでした。』
 ザンパノは自分の罪のため、ジェルソミーナを死に追いやったことに気づき、悔い改め、天を仰ぎ一瞬神を見たように思います。

 ザンパノは私たち人間、ジェルソミーナはイエス様、綱渡り芸人は預言者だと私は思います。ザンパノは綱渡り芸人の忠告に従わず罪に陥りましたが、ジェルソミーナの死によって悔い改めました。それはまるで人間が預言者の忠告に従わず神から離れましたが、イエス様の十字架によって罪を贖われたことを象徴しているようです。
 フェリーニの「道」からこんなことを思いました。