オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第23主日聖餐式『信仰のともし火を燃やし続ける』・葬送告別式

 本日は聖霊降臨後第23主日。高崎の教会はみ言葉の礼拝、私は新町で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙一 4:13-18とマタイによる福音書 25:1-13。説教では、「十人のおとめのたとえ」について、当時の習慣等を踏まえ、花婿や花嫁、ともし火や油が何を意味するか、当日の聖歌や使徒書等を基に導きました。そして、いつイエス様が来臨してもいいように、日々、聖書を読み祈り、信仰のともし火を燃やし続け、主に仕えることができるよう祈り求めることを勧めました。

 新町の礼拝後、榛名聖公教会に駆けつけ、秋葉晴彦司祭様の葬送告別式に参列し使徒書の朗読をしました。

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  秋葉先生の御国での魂の平安をお祈りします。

    『信仰のともし火を燃やし続ける』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日は聖霊降臨後第23主日です。教会暦は今年の終了まであと1ケ月を切りました。今日読まれた聖書も終末的な雰囲気が強くなっています。
 今日の福音書の箇所は「十人のおとめのたとえ」と言われている箇所です。
 この箇所の背景や習慣を見てみます。この時代のユダヤの結婚式は、夜に行われたそうです。まず、夕方になると、着飾った花婿が大勢の友人に取り巻かれて、楽器を鳴らしながら花嫁の家に花嫁を迎えに行きます。そして、美しく着飾った花嫁が友だちに付き添われて花婿の実家に向かいます。その行列は花婿とその友だちを先頭に、花嫁とその友だちが続きます。手に灯りを持ち、音楽あり、踊りありと賑やかにこの行列は進んで行きます。花婿の家では、この行列が到着するのを待ちうけるのですが、夜遅くなることもしばしばあったようです。花婿の実家ではその道を照らすために灯りを持ったおとめたちを途中まで迎えに行かせました。灯りをいっぱいともして花婿と花嫁の行列を迎え入れ、それから本格的な婚宴が始まるのでした。

 次に、今日の福音書箇所を振り返ります。
 『「天の国は次のようにたとえられる」とイエス様はお話を始めました。10人のおとめが灯りを持って、花婿の行列が到着するのを迎えに行きました。10 人の内、賢い5人のおとめは、手に持った灯りの他に予備の油を入れた壺を持っていました。しかし、愚かな5人は予備の油を持っていませんでした。花婿たちの行列が遅くなったので、迎えに出たおとめたちは途中で休んでいる間に、いつのまにか眠ってしまいました。
 眠り込んでしまった時に、「花婿だ。迎えに出なさい」という声が聞こえ、おとめたちはあわてて起きあがり、灯りを整えました。いずれの灯りも油が切れて消えそうになっていましたが、予備の油を持っている賢い5人のおとめたちはすぐに補給することができました。しかし、予備の油を持っていない愚かなおとめたちの灯りは消えてしまいそうになりました。そこで、賢いおとめたちに「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」と頼みました。しかし、賢いおとめたちは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と答えました。
 愚かなおとめたちは、あわてて油を買いに行きました。しかし、間に合いません。その間に花婿の行列が到着し、予備の油を用意していた5人のおとめたちは、灯りをともして花婿たちの行列を迎え、無事に役目を果たすことができました。この5人のおとめたちは花婿たちと一緒に婚宴の部屋に入り、戸が閉められました。
 その後、予備の油を持っていなかったおとめたちは、帰って来て、花婿の家に行き、「御主人様、開けてください」と言いましたが、ご主人は、「わたしはお前たちを知らない」と答えました。このようなたとえの話をした後、イエス様は「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われました。』

 このたとえ話でイエス様が私たちに教えられたことは何でしょうか? また、花婿や花嫁は何を指し、ともし火や油は何を意味するのでしょうか?
 花婿については、本日の礼拝の入堂で歌った聖歌第58番に示されています。

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 「起きよ、夜は明けぬ」で始まり「花婿は来ませり」とあり「栄えの主はくだりましぬ」と続くように、花婿は主イエス・キリストを指していることが分かります。ちなみに、この聖歌は、待ち望んでいた花婿であるイエス様の到来の喜びに溢れた内容となっています。
 そして、花嫁はキリスト者たち、または教会のことと考えられます。教会はキリストの花嫁とも言います。また、シスター(修道女)もキリストの花嫁と言います。つまり、イエス様と結ばれて救われた者たちです。
 花婿の家のご主人は、天の父なる神様のことでしょう。
 10人のおとめとは誰でしょうか? 花婿であるキリストの来臨を待っている私たちのことと考えられます。
 では、ともし火とは何でしょうか? 花婿であるイエス様を待ってともし続ける物です。・・・それは信仰であると考えます。

 さて、賢い5人のおとめと愚かな5人のおとめの違いは何でしょうか?・・・それはともし火をともし続ける予備の油を用意していたかどうかでした。
 イエス様は「目を覚ましていなさい」とおっしゃいましたが、おとめたちは10 人とも眠ってしまいましたので、ここで言っている「目を覚ましている」ということは、内容的には「油を用意している」ということであると考えられます。
 今日の使徒書テサロニケの信徒への手紙一4:16に「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。」とありますように、イエス様は私たちのところに再び来てくださると約束されました。でもそれはいつだか分かりません。
 いつ来られてもいいように、予備の油を用意しておくことが大事だということが分かります。では、その油とは何でしょうか? ともし火である信仰を燃やし続けるためのものです。

 マタイ5章16節に「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とありますから、「光(ともし火)」は「立派な行い(善い業)」を意味していると思われます。しかし、この「光」は神様から来る光であり、善い業を行う力は神様から来るのです。そこには「神の業」を行わせるための「聖霊」が与えられています。このことから、「ともし火」をともし続けるための「油」は「善い業」、さらにそれを行わせる「聖霊」を指していると考えられます。「善い業」は神様との交わりの中で行われますが、その交わりを保ち続けなければならないことをイエス様は教えておられます。

 皆さん、天の父なる神様は、賢い5人のおとめのように信仰を保つために、聖霊によって善い業を行うことを求めておられます。それに応えるためには、聖書を読み祈ること、また礼拝に参列することが大切だと思います。
  私たちは、いつイエス様がおいでになってもいいように、そのような日々を送って、信仰のともし火を燃やし続け、主に仕えることができるよう祈り求めたいと思います。