オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

降臨節前主日 聖餐式 『最も小さい者の一人とは誰か』

 本日は降臨節主日。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。 聖餐式の聖書箇所は、エゼキエル書34:11-17とマタイによる福音書25:31-46。説教では、今回新たに気づかされた「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」はマタイ自身ではないか、そして私たちではないかということ等について語りました。小さい者に仕える事例として、施設に出向いて行うミュージック・ケアにも言及しました。

 『最も小さい者の一人とは誰か』

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 今日は降臨節主日、教会の暦では、一年最後の日曜日です。この日はカトリック教会では「王であるキリスト」という祭日であり、英国やアメリカ、カナダなど、多くの世界の聖公会でも「王なるキリスト」(Christ the King)の主日としています。イエス・キリストは王であり、王であるキリストを祝うのが今日の主日と言えます。「王」はキリストの三職務のうちの一つです。イエス・キリストには、預言者(神の言葉を預かる者)、祭司(祭儀を司る者)、王(統治者)の三つの務めがあるとされており、この務めに際して旧約において油が注がれました。救い主、メシアの語は「油注がれた者」を意味しています。
 また、聖書日課について今年はA年で、マタイによる福音書を中心に読んできましたが、それも今日で終わり、次週からはB年となり、マルコによる福音書を中心に読んでいくことになります。    
 
 さて、今日の福音書の箇所はマタイ25:31-46です。この箇所は24章4節から始まった、終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエス様の最後の説教でもあります。いわゆる「最後の審判」の話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が大切なのかをはっきりと示すための話と考えられます。

 今日の福音書の箇所を振り返ってみます。
 人の子(イエス様)が世の終わりに栄光に輝いて、天使たちをみな従えて来て、その栄光の座につきます。
 そのとき、すべての国の民が集められて、羊飼いが羊と山羊を分けるように、すべての者が右と左に振り分けられます。このことは当時のユダヤの人々にはイメージしやすかったと思います。というのはユダヤ地方では、羊と山羊は昼間は一緒に牧草を食べますが、夜には山羊は羊に比べて頑丈ではないので温かく保つように必ず分けて休ませていたからです。このように、すべての人が振り分けられて、右側にいる者は「祝福された人たち」と言われ、左側の者たちは「呪われた者たち」と言われます。
 王であるイエス様は右側にいる人たちに言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
 イエス様は右側にいる、祝福された正しい人たちに「あなた方は私にこんなことをしてくれた」と具体例を出して天の国を受け継ぎなさいと言いました。
 すると、正しい人たちは「私にはそのようなことをした覚えはない」と言います。
 そこで、王であるキリストはこう答えます。40節です。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 困っている人に親切にし、助け、奉仕をしたことが、実は主であり王であるキリストに対して親切にし、助け、奉仕をしたことだったのです。
 それから、王であるキリストは左側にいる人たちに言います。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」と。 それは、つまり、「私、キリストが困っていたときに何もしてくれなかったからだ」と言うのです。
 すると、左側にいる人たちは「私はあなたが困っているときに何もしなかったという覚えはありません」と言います。そこで、王であるキリストは答えます。
『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』と。
 「困っている最も小さな者の一人にしなかったのは、私、キリストにしなかったことだ」と言うのです。
 最後にイエス様は結論づけます。
「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかる のである。」
 このような箇所でした。

 実は、私にとってこの箇所、特に中心聖句である『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』は、私が養護学校の教員だったときに私の毎日を支えた聖句でありました。「この最も小さい者、目の前の障害のある子はイエス様であり、この子らにするのはイエス様にすることなのだ」と思って、日々の教育活動を行っていたのでした。
 最近でも、今年の1月から、かつての教え子のいる障害者施設を訪れ月2回ボランティアでミュージック・ケアを行ってきましたが、それも「この方々にするのはイエス様にすること」という発想で行ってきたのでした。

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 しかし、今回、この箇所を丁寧に読み、マタイが福音書の終わりにこの説教を記したことを踏まえて黙想したところ、新たな気づきが与えられました。
 マタイによる福音書を記したマタイは伝統的な理解では、12使徒の一人であり徴税人のマタイです。徴税人は当時のユダヤでは罪人として疎まれ、自身もすさんだ気持ちで過ごしていたと推察されます。そのマタイにイエス様は「わたしに従いなさい」(マタイ9:9)と声をかけ、自分の弟子として行動を共にしました。マタイは大きな喜びを得たと思います。そこで、マタイは彼の福音書の初めで、イエス様のことを「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」(マタイ1:23)と呼んだのではないでしょうか? そして、最後の説教で本日の箇所を記しました。イエス様のおっしゃる「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは、実はこの福音書を記しているマタイ自身のことではないか、と思わされました。また、マタイは、自分を救い「私の兄弟」と呼んでくださるイエス様への感謝を込めてこの箇所を記したのではないか、と思ったのです。

 私たちも神様の前で何も誇ることのできない小さい者です。その私たちの人生のあるときにイエス様が「わたしに従いなさい」と声をかけ、弟子としてくださいました。そして共にいて苦難の中から救ってくださったのです。
 本日の旧約聖書の冒頭、エゼキエル書34:11・12にもこうあります。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」
 主なる神は羊である私たちの世話をし、迷ったら探し出し、そして救い出して下さるのです。それは神の大いなる慈しみによるのであります。

 皆さん、イエス様は「最も小さい者の一人」である私たちをも「私の兄弟」と呼び、世話をしてくださいました。今度は私たちが、困っている小さな人々を助け世話をする番です。そうすることは私たちの王であるキリストにすることなのです。私たちは、私たちが迷ったら探し出し、救ってくださる主なる神に感謝すると共に、身近にいる、他の小さな人々を助け世話をすることができるよう祈り求めて参りたいと思います。