オーガスチンとマルコの家

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聖霊降臨後第5主日 聖餐式・誕生感謝の祈り(高崎)『重荷を負う者を招くイエス様』

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「誕生感謝の祈り」で司祭の祝福を受ける幼子と家族


 本日は聖霊降臨後第5主日です。高崎の教会で、聖餐式を献げました。本日は説教の後に「誕生感謝の祈り」がありました。

   聖書箇所は、旧約聖書 ゼカリヤ書 9:9-12、福音書 マタイによる福音書 11:25-30 です。 
 説教ではマタイ11:28のみ言葉に注目して、その意味について思い巡らしました。また、このみ言葉で生きる力を得た例として星野富弘さん、ことに「あの時から空がかわった」という詩を取り上げて論を進めました。
 説教原稿を掲載します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今、お読みしたマタイによる福音書11:25-30には、多くの人から愛され、多くの人に生きる力を与えたみ言葉が含まれています。それは28節の『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』です。先主日の説教で「いのちより大切なもの」という詩を紹介した星野富弘さんも、このみ言葉によって新たな生きる力を得た一人です。
 「あの時から空がかわった」という詩画及びエッセイ集の中の「かりんの実」の絵に添えられた詩はこうです。

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 毎日見ていた 空が変った 
 涙を流し友が祈ってくれた あの頃 
 恐る恐る開いた マタイの福音書 
 あの時から 空が変った 
 空が私を 見つめるようになった

 この「恐る恐る開いたマタイの福音書」の箇所が、11章28節の『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』です。これを読んだ時から「空が変った 空が私を 見つめるようになった」というのです。富弘さんをそうまでさせたこのみ言葉には、どのような意味があるのでしょう? どうしてそのような力があるのでしょうか? 

 先ほどの聖句の後に、イエス様のところに来て休ませていただいたらどうなるかが記されています。29・30節です。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 イエス様は自分を柔和で謙遜であるとおっしゃいます。これはこれまでの旧約聖書で多く示された厳しく罰する神様とは違う新たな神様です。本日の旧約聖書のゼカリヤ書は旧約聖書の最後から2番目の書物で、かなり新約聖書に近くなっています。その9章9節の後半でイエス様についてこう預言しています。
「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」
 イエス様が馬でなくろばに乗ってくるという、柔和で謙遜な姿でエルサレムに入城されることが預言されています。
 そのような「柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」とおっしゃっています。軛とは畑を耕すために牛二頭の首にかける木材です。頸引きが縮まって「くびき」というようになりました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とは「イエス様と一緒に軛を負い、イエス様のリードに従って歩みなさい」ということです。そうすれば「安らぎを得られる。」というのです。なぜなら「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いから」です。イエス様は「私がうまくリードする、あなたが負いきれない重い荷物は載せないから」というのです。

 冒頭紹介した星野富弘さんは最初に出版された手記「愛、深き淵より。」の中でこう言っています。

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『手足の自由を失って3年、自分が何に向かっていけばよいのか分からなかった。私は心のよりどころを求めていた。そんな私の耳元を時々、風のようにささやく言葉があった。「労する者、重荷を負ふ者、われに来たれ」それは、郷里の家の裏の墓地にあった白い十字架に書かれてあった言葉だった。母に開いてもらったマタイ福音書にこの言葉があり、聖書の言葉なのを初めて知った。私がまだ健康でなにも知らないで飛び回っていた頃からすでに、私にこの言葉を与えてくれていた、神さまのこころを知ったような気がした。……この神の言葉にしたがってみたいと思った。クリスチャンといえる資格は何も持っていない私だけれど、「来い」というこの人の近くにいきたいと思った。』
 この一年後に富弘さんは病床で洗礼を受けます。そこに至るまでには大学の先輩で後に牧師となった米谷さんや前橋キリスト教会の信徒で後に結婚された渡辺さんはじめ、多くの友の祈りがありました。そして、それらは私たち一人一人を見守ってくださる神様の力によるのです。

 皆さん、私たちは皆、何らかの重荷を負っている者です。その私たちにイエス様は「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃっておられます。そしてイエス様が一緒に重荷を負ってくださり、イエス様と二人で軛につながれ、イエス様のリードで人生を歩むとき、安らぎが与えられるのです。柔和で謙遜な主イエス様を幼子のような気持ちで一筋に信頼して、日々主に従い、み心にかなう生き方ができるよう祈り求めて参りたいと思います。