オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

久米小百合(久保田早紀)とキリスト教

 本田路津子に続いて、久米小百合のCDを聞いたり久米小百合の自叙伝を読んだりしています。後者は昨年3月に出版され購入し途中まで読んでストップしていましたが、また読み始め、昨夜読了しました。それは『ふたりの異邦人 久保田早紀久米小百合自伝』という本です。

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 「異邦人」発売40周年と彼女の還暦を迎えての節目に綴られた自叙伝です。
久米小百合は1979~84年、久保田早紀として音楽活動をし、デビューシングル「異邦人」は140万枚を売り上げ、オリコンチャート7週連続1位の快挙をなし遂げます。初めてのテレビ出演は「夜のヒットスタジオ」でした。下のアドレスでその時の映像を見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=uqg8DdeMWYM&feature=youtu.be

「異邦人」はこのような歌詞です。

(1) 子供たちが空に向かい 両手をひろげ
  鳥や雲や夢までも つかもうとしている
  その姿は 昨日までの何も知らない私
  あなたに この指が届くと 信じてた
  空と大地が 触れ合う彼方 過去からの旅人を 呼んでいる道
  あなたにとって私 ただの通りすがり 
  ちょっと振り向いてみただけの異邦人

(2) 市場へ行く人の波に 身体を預け
  石畳の街角を ゆらゆらとさまよう
  祈りの声 ひずめの音 歌うようなざわめき
  私を置き去りに 過ぎてゆく白い朝
  時間旅行が 心の傷を なぜかしら埋めてゆく 不思議な道
  サヨナラだけの手紙 迷い続けて書き
  あとは哀しみをもてあます 異邦人あとは哀しみをもてあます 異邦人

 冒頭の「子供たちが空に向かい 両手をひろげ 鳥や雲や夢までも つかもうとしている」の歌詞は、イエス様の次の言葉を彷彿させます。
『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』(マタイによる福音書19:14)
 イエス様は子供たちを特別に愛しておられます。
 また、1番の最後の「あなたにとって私 ただの通りすがり ちょっと振り向いてみただけの異邦人」は、復活したイエス様に出会ったマグダラのマリアを思い浮かべます。こうあります。
『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。』(ヨハネによる福音書 20:16)
 そして、タイトルの「異邦人」に注目します。異邦人とはユダヤ人以外の異教徒を差しますが、神様のことを未だ知らない人という意味にもなります。
 この時点ではまだ洗礼も受けておらず、久保田早紀はまさに「異邦人」であったと言えると思います。

 久保田早紀はデビュー曲がいきなりミリオンヒットとなり、一躍時の人となって、想像を絶するスピードでキャリアを積んで行く中で、自分自身を見失うことが度々あったそうです。ずっと居心地の悪さを感じながら、そして自身に問い続けながら歌っていた彼女は、子供の頃、教会の日曜学校に通い、そこで聴いた讃美歌が自分の音楽のルーツだったと思い当たり、1981年にプロテスタントの教会で洗礼を受けました。
 そして、84年、音楽家久米大作氏との結婚を機に芸能界を引退し、86年から音楽宣教師ミュージック・ミッショナリー)として活動をスタートさせました。また、聖書のやキリスト教の知識の必要性等を感じ、東京バプテスト神学校神学科で学び、カーネル神学大学にて博士課程を取りました。
 音楽宣教師について、久米小百合はこう言っています。「神父さんや牧師さんは言葉で神様の愛や聖書の福音を伝えます。音楽宣教師は、音楽を通して神様の愛や聖書の福音を伝える仕事です」と。

 音楽宣教師となり、久米小百合名義で3枚のCDをリリースしました。

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そして、今も、教会やミッションスクール等で音楽宣教師として活動しています。ここのアドレスで最近の彼女の教会でのコンサートの様子を垣間見ることができます。「小さき星は」や「主我を愛す」、「アメージンググレース」を弾き語りしています。
https://www.youtube.com/watch?v=FfPHv7V6Oa8&feature=youtu.be

 最新のアルバムは『7carats+1』という本田路津子やKishikoとのコラボレーションのCDです。

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  このCDの中で、久米小百合は聖歌「この世の波風さわぎ」を歌っています。冒頭の自叙伝『ふたりの異邦人 久保田早紀久米小百合自伝』の最後には「讃美歌第二編157番」として記されています。
 私たちの聖歌では481番、松平惟太郎司祭の詞です。

1)この世の波風さわぎ 誘いしげき時も
  悲しみ嘆きの嵐 胸にすさぶ時にも
  御前に集い祈れば 悩み去り憂きは消ゆ
  いざ共に讃え歌わん 恵み深き主のみ名

 2)一つの望みに生くる はらから共に集い
  互いに仕えむつめば 世になき安き満ちて
  あめなる喜びあふる 麗し神の民よ
  いざ共に讃え歌わん 恵み深き主のみ名

 この曲を自叙伝の最後に持ってきたのは、久米にとって洗礼を決心した吉井秀夫牧師のメッセージをイメージしたからと考えます。それはある特別伝道集会で聞いた吉井秀夫牧師(キリストの教会鹿屋キリスト教会)のメッセージでした。
「人生には、穏やかな凪の日もあれば、嵐の日もあります。私たちは、どんな天候の中でも、沖へと進んでいかなければなりません。人生に本当のナビゲーターがいたら、嵐の時も前に進むことができ、道を誤りそうな時には助けてもらえます。あなたは今日、素晴らしいナビゲーターである救い主イエス様を受け入れて新しい人生を歩むこともできるし、これまで通り自分を神として生きていくこともできる。心の扉は内側にしかノブが付いていないので、あなたが扉を開けない限り、神様はあなたの心の中に入ることはできません。どちらの道を選ぶのも自由です」・・・。
 芸能界という荒波の中、1人で小舟を漕ぐ感覚でいた久米は、その言葉に心を打たれました。集会後すぐ吉井牧師に、「私は聖書のこともイエス様のことも何も分からないけれど、イエス様を迎え入れたいです。クリスチャンとしてこれからの人生を歩んでいきたいです」と伝えたと言います。

 久米小百合は、芸能界に身を置いていたとき「自分が異邦人である」という感覚を抱き、自分の音楽ルーツが子供の頃通った日曜学校の讃美歌にあると気づき、教会に戻り受洗しました。そして神様から自分の使命が音楽宣教師にあると示され、その活動に取り組んでいます。多くの異邦人はパウロの伝道によってキリスト者となりました。神を知らない者が、神様に愛され神様に従う者となったのです。しかし、久米は今も自分が「異邦人」である感覚を持ち続けていると言っています。
 私も、大学卒業後3年が過ぎ、初めて市部の中学校の教師となったとき(それまでは山間部の小学校)に、「異邦人」のような感覚を抱きました。生徒に対して強い指導を求められてもそれをできない自分がいましたが、それに代わるものとして大学で受けた「キリスト教教育」を思い浮かべました。そして、出身大学と同じ教派の教会に通い始め受洗しました。公立学校でしたので直接キリスト教を伝えることはできませんでしたが、キリスト者として生きることが証しと思っていました。その後、特別支援教育に出会い、そこで自分が生かされました。さらに退職後、神学校で学び、昨年9月に司祭に按手されました。生まれながらのキリスト者でもなく、大学を卒業してすぐに神学校に入学したのでもない私も、「異邦人」のような感覚が今もあります。しかし、パウロによって異邦人がキリスト者になったことに大きな励みをいただいています。今は異邦人であってよかったと思っています。
 「久米小百合久保田早紀)とキリスト教」からこんなことを思い巡らしました。