オーガスチンとマルコの家

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聖霊降臨後第11主日 聖餐式『カナンの女の信仰に倣う』

今日は聖霊降臨後第11主日。高崎で聖餐式を捧げました。聖書個所は、旧約 イザヤ書  56:1、6-7とマタイによる福音書15:21-28。
 説教では、冒頭で聖書地図を使い、本日の福音書の舞台であるティルスとシドンの場所や異邦人の町であること等を紹介しました。カナンの女のエピソードとイザヤ書56章から「神の計画に従う信仰により異邦人も救いの対象とする」という神のみ旨を探りました。「謙遜」をキーワードに、私たちキリスト者が傲慢に陥りがちなことに警鐘を鳴らし、聖餐式の陪餐の「近づきの祈り」についても言及しました。

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 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日の福音書はマタイによる福音書第15章21節から28節です。新共同訳聖書の小見出しでは「カナンの女の信仰」となっています。

 今日の箇所を振り返りましょう。
  イエス様は、ティルスとシドンという地方へ行かれました。聖堂の受付に置き、取っていただいたB5版の「新約時代のパレスチナ」の地図をご覧下さい。地図の上部、シドンとティルスに手書きで丸印をしておきました。このティルス、シドンという町は、イエス様が生活し最初に宣教したガリラヤ地方の北西、地中海に面したフェニキアという地方にある町で、異邦人の町でした。ユダヤ人から見ると、そこは、異教徒の町、異国の町で、イエス様は、そのような地域に足を踏み入れられたのでした。
 そこで、イエス様は、一人の女性に出会いました。この女性は「カナンの女」と言われています。カナン人というのは、イスラエルの先住の民族でした。そのカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」とイエス様に叫びました。このカナンの女が言った「ダビデの子」はイスラエルの王(メシア)を表す言葉です。当時は「悪霊」が病気も引き起こすと考えられていました。この女はイエス様の評判を聞いて、娘の病気を癒やしてもらうためイエス様に会いに来たのです。彼女は、「ダビデの子よ。」と叫びました。異邦人である彼女が「イスラエルの王(メシア)よ。」と叫んだのです。このカナンの女は、必死になってイエス様にすがりついたのです。
 それに対するイエス様の反応は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、つまり「異邦人は対象外である」という冷たいものでした。ところがこの女はそんなことではめげませんでした。イエス様の前にひれ伏して「主よ、どうかお助け下さい」と頼みます。この「ひれ伏し」というのは、「礼拝して」という意味の言葉です。彼女は礼拝しつつ願ったのです。
 それに対してイエス様は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになりました。この場合の「子供」はイスラエル民族を指し、「小犬」は異邦人を指すと考えられます。イエス様の言葉は、何とも差別的な発言のようにも取れますが、当時はイスラエル民族の救いが優先されると考えられていたのです。ところが、ここでカナンの女は、自分たちも救いを受けることができるはずだ、と主張します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と。ここには彼女の謙遜さと共に「パン屑なら神の計画を損なうことにならないのではないか」という必死の思いが感じられます。イエス様はこの女の姿に接して態度を変えます。
  イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」とお答えになりました。そのとき、このカナンの女の娘の病気はいやされたのでした。

 この箇所で示された神様の思いとはどのようなものでしょうか?  そのことの関連で、本日の旧約聖書イザヤ書56章1節以下を見てみましょう。
 イザヤ書56-66章は、紀元前6世紀末から5世紀初頭にエルサレムで活動した第三イザヤと呼ばれる預言者の言葉です。56章6節から7節にかけてこうあります。『主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり安息日を守り、それを汚すことなくわたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導きわたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。』
 異邦人であっても、主に仕え、主の僕となり、神との契約を守るなら、祈りの家に連なることを許す。つまり、神の計画に従う信仰があれば異邦人も救いの対象とする。そして「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と、ユダヤ人だけでなくすべての民が神の家の住民になり得るというのです。
 ここではすべての民が救いの対象であると示されると共に、その条件として神の計画に従う信仰が求められていると言えます。
 
 今日の福音書においても、イエス様は、神の計画に従う信仰を持っている人に対して、異邦人も含め救ってくださるということを示されました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」としていたイエス様の態度を変えさせたのはこの異邦人であるカナンの女の信仰でした。このカナンの女の信仰によってイエス様の救い主としての使命が異邦人を含む、より普遍的なものに変えられていったと言えます。そして、忘れてならないのは、カナンの女の願いが聞き届けられたのは、彼女がただ奇跡を求めたのではなく、神の計画に従う信仰を表したからだ、ということです。

 このカナンの女の信仰はどのようなものでしょうか?
 1つは「根気よく願い続ける」ということです。この女の願い方を見てみると、何度も何度もしつこくお願いしたということが分かります。
 もう1つのポイントは「謙遜に祈る」ということです。このカナンの女は「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と「パン屑でもいいから」とお願いしました。「ほんの少しでもいい」という、謙遜なる神の恵みに対する絶対的な信頼を、この女は持っていました。
 謙遜の反対は何でしょうか? それは傲慢です。私たちはキリスト者であるがゆえに持つ傲慢があるように思います。「私は洗礼を受けた。神の子とされた。神様は天国を約束してくださっている。だから安心だ。私の行いは神様が認めている」と、自分の姿を省みることをせず、人の気持ちを踏みにじるようなことはないでしょうか?
 そして、信仰生活が長くなればなるほど傲慢に陥るのかもしれません。
 救いの恵みは、私たちにもたらされています。しかし、それを受けるためには、まず、神様に対して、謙遜でなければならないと思います。

 「謙遜」ということで思い浮かべる祈りがあります。それは私たち聖公会聖餐式の陪餐の折りに唱える「近づきの祈り」です。祈祷書の181ページにありますので、ご覧ください。「近づきの祈り」は英語でHumble access(謙遜なる接近)と言われるものです。これは、最近は割愛していますが、「聖公会の宝」とも呼ばれる16世紀、クランマー大主教によって英国の最初の祈祷書に取り入れられた聖公会独自の祈りです。こうあります。
『憐れみ深い主よ、わたしたちは自分のいさおに頼らず、ただ主の憐れみを信じてみ机のもとに参りました。わたしたちは、み机から落ちるくずを拾うにも足りない者ですが、主は変わることなく常に養ってくださいます。・・・』
 これは本日のマタイ福音書15:27のカナンの女の言葉「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」をモチーフとした信仰告白の祈りです。
 
  皆さん、私たちは本日の福音書の、このカナンの女の信仰に倣い、根気よく、そして特に謙遜に祈り続けたいと願います。この女のような神の計画に従う信仰が与えられますよう、そして「近づきの祈り」のように神の赦しと養いを祈ることができるよう主に寄り頼んで参りたいと思います。