オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第19主日 主教巡回聖餐式(高崎)・福田司式聖餐式(新町)『神の招く祝宴に礼服を着る』

 本主日は広田主教様が急遽、高崎の教会を訪ねて聖餐式の司式・説教をしてくださいました。

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 礼拝後、短時間ですが会館で交わりの時も持つことができ、感謝いたします。

 福田は新町で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書25:1-9とマタイによる福音書22:1-14。説教では、福音書の「婚宴のたとえ」について、当日の旧約聖書イザヤ書25章の「すべての人に招かれている祝宴」との関連で思い巡らしました。「婚礼の礼服」と考えられる信仰告白の一例として「十字を切る」ことに言及し、身近な話題であるNHKの朝ドラ「エール」のそのシーンにも触れました。

    『神の招く祝宴に礼服を着る』

 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日の福音書の箇所はマタイによる福音書第22章1節から14節です。マタイ福音書では21章からイエス様のエルサレムでの活動が始まります。
 イエス様が神殿の境内に入り教えておられると、祭司長や民の長老という当時のユダヤ教の指導者たちが近寄って来て、イエス様の権威について尋ねました。そこで、イエス様は3つのたとえ話をしました。1つ目は「二人の息子」のたとえ、2つ目は「ぶどう園と農夫」のたとえ、そして3つ目のたとえ話が今日の福音書の「婚宴のたとえ」です。

 今日の福音書箇所の概略はこうです。
『王が王子のために盛大な婚宴を催し、そこに多くの人が招かれます。しかし、招かれた人は何度招かれてもその招きに応じないばかりか、知らせに来た家来たちを殺してしまいます。招きに応じない人たちに怒りを発した王は、軍勢を差し向けこれを滅ぼします。そして新たに招待する人を捜しに、また家来たちを派遣します。家来たちは町の大通りで本来は招かれるはずではなかった人たち、善人も悪人もみな集めてきました。その後、王は「婚礼の礼服」、つまり婚礼にふさわしい服を着てこなかった人を「外にほうり出せ」と命じました。』

 このたとえの中の王とは「父なる神」、王子とは「御子イエス・キリスト」であり、婚宴とはイエス様の「再臨」あるいは「救い」であると考えられます。そして、婚宴に招かれたのに応じなかった人々は「祭司長や民の長老」や「ユダヤ人」を、大通りで集められた人は「異邦人」はじめ「すべての人々」を指していると考えられます。
 
 このたとえ話で、イエス様が私たちに示し、求めておられるのはどのようなことでしょうか?  
 それについては、本日の旧約聖書イザヤ書25章1-9節が参考になります。
 6節にこうあります。「万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。」と。
 万軍の主なる神は、すべての人を祝宴に招いておられます。そしてその席に着くと神様は良い肉とえり抜きの酒でもてなしてくださいます。
 9節はこうです。「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。」
 ここでは、待ち望んでいた救い主が現れ、すべてのこの世の苦しみから解放された喜びが表現されています。まさに特別な祝宴を主が開いておられるのです。

 今日の福音書でも、王である神様は、善人も悪人も異邦人も、すべての人を婚宴に招いておられます。
 イエス様が私たちに示しておられるのは、すべての人は婚宴、つまり「救い」に招かれているということだと思います。

 しかし、そこに預かるための唯一の条件があります。それが「婚礼の礼服」を着ることです。これはどういうことでしょうか?
 町の大通りからたまたま連れてこられた人が「礼服を着ていない」といって王に責められるのはどう考えても不自然です。急に集められたのだから礼服を着ていないのは当然なような気もします。しかし、当時は、花婿の父親が礼服を持っていない客に婚礼の衣服を準備する慣習があったようなのです。そうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになります。王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのに彼は沈黙していますが、この沈黙は彼の不服従を表しているとも考えられます。そして、客がこの好意を受けず、婚礼の礼服を着なければ、主人である王は侮辱されることになります。婚礼にふさわしい服(礼服)を着ることが求められているのです。
 「婚礼の礼服」とは一体何でしょうか? このことについては古来から様々に言われてきましたが、私はこう思います。「この礼服は、神が備えられた新しい着物。それは、イエス・キリストの義を象徴し、救いに招かれたことへの感謝を示し、それを着るという行為は神への信仰告白である」と。
 救いに招かれた感謝として「婚礼の礼服」を着ること、つまり神への信仰を告白することを神様は私たちに求めておられるのではないでしょうか?

 信仰告白とは団体あるいは個人が信仰を公にすることです。団体としては、私たち聖公会は定型の信仰告白であるニケヤ信経や使徒信経を持っています。個人としては、自分がイエス様を救い主(キリスト)として受け入れ、それに従う信仰を持っていることを公に表すこと。それはキリスト者として愛の行為を行うことが思い浮かびますが、言葉や所作で信仰告白をすることもできます。例えば、前回お話しした「十字を切ること」もその一つだと思います。

 皆さんは、NHK連続テレビ小説「エール」はご覧になっていますか? ここにそのガイドブックがあります。

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 先週の月曜(5日)、裕一の妻、音の豊橋の実家において、食前の感謝で薬師丸ひろ子演じる音の母、光子の「主よ、この食卓を祝し給え」の祈りの言葉に続いて、家族(梅と五郎)で十字を切るシーンがありました。

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 彼らは聖公会の信徒であり、所作でキリスト者としての感謝と信仰を表していました。
 私も食前には十字を切って祈っています。教会や自宅だけでなくレストラン等でもやっています。それが自分の信仰を公に表明する「信仰告白」であり、場合によっては宣教にもなると考えています。皆さんも信仰告白として「十字を切る」ことをお勧めします。

 神様はすべての人を「婚宴」という「救い」に招いておられます。そのことに感謝し、信仰告白という礼服を着てそこに出席し、神様のもてなしを受けることを主は望んでおられます。主が準備してくださった礼服を着て、天の祝宴に近づきたいものです。
 皆さん、神様は私たちのすべてを知っておられ、いかなる時も私たちを守り支えてくださる方です。その方に全幅の信頼を寄せて近づき、準備された「救い」という礼服を着ることができるよう、日々、主の導きを祈りたいと思います。