オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「バッハとルター」に思う

 前々回の記事で「バッハは自身の楽譜の最後に”Soli Deo Gloria”(神のみに栄光を)と書き記した」と記しましたが、この語はルターはじめ宗教改革神学者たちの神学を要約したラテン語の語句である「5つのソラ」の一つです。「ソラ」は「〜のみ」を意味する語です。ちなみに他の「5つのソラ」はSola scriptura「聖書のみ」、Sola fide「信仰のみ」、Sola gratia「恵みのみ」、Solus Christus「キリストのみ」です。
 今回はバッハとルターの関係等について思い巡らしたいと思います。

 音楽の父と呼ばれているJ.S.バッハは、ルターの死後約140年経った1685年に生まれ1750年に亡くなりました。バッハの祖先はみな熱心なルター派の信徒でした。
 今回主に参考にしたのは、徳善義和著「ルターと賛美歌」です。

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 この本に「賛美歌は説教への会衆の応答であり、神のことばの説教でもある」(p.3)とあります。また、ルターは、「説教者は言葉で説教をし、会衆は音楽で説教する」と言いました。礼拝における会衆の賛美を重要視し、賛美歌を始めたのがルターだったのです。
 宗教改革以前のカトリック教会では、会衆が歌うことはありませんでした。しかし、ルターは、教会に集まる信徒が積極的に礼拝に参加できるように、信徒が歌う歌が必要と考え、ルターみずから讃美歌を30曲ほど作曲したと言われています。ルターは、「音楽は神からの賜物」(p.82)であり、キリストの教え(福音)を歌うことが神の御心に添うものと考えていました。この思想は、宗教改革以後も受け継がれ、数多くのルター派の音楽家を支配していました。バッハの祖先もみな音楽を通して福音を歌い奏でることが神の御心に沿うものと考えていました。ルターの死後約200年に渡りこうした営みが続けられ、バッハの晩年に最高峰に達したと言えます。音楽の父バッハの産みの親はルターだ、と考えることができます。

 ところで、この本に「礼拝は、人間が神に対して行うサービスではなくて、人間に対する、キリストのできごとを中心とする『神の奉仕』にほかならない」(p.29)という注目すべき言葉がありました。
 このことについては、同じ徳善先生の著書(岩波新書)「マルティン・ルター-ことばに生きた改革者-」に詳しくこうありました。
『ルターの礼拝改革の中心は「神の奉仕」という理解の仕方にもとづく。ここで「神への奉仕」ではないことに注意が必要である。ルターの考える礼拝は、英語で言えば「サービス」に当たる。そこで、人間が神に奉仕することだと考えられがちだが、そうではない。まったく逆に、神が人間に奉仕すると考えるのが、ルターの考える礼拝なのである。』(p.139)
 賛美歌と言えば「私が賛美する歌」というように思いがちですが、ルターの「神の奉仕」という論理に従えば、神の恵み、奉仕が先にあり、それへの応答として「私が賛美する歌」がある、というのだと思います。
 キリスト教信仰の基本は「神の恵みが人間の信仰に先立つ」ということですが、徳善先生は、礼拝についても、このように「神の奉仕」と的確に言い表したのでした。
 神の恵みの先行、人間の業ではなく神の恩寵による救いという、ルター神学の前提は、この2つの著書に貫かれています。賛美歌そのものにおいても「人間の作詞・作曲に先行して神の愛がある」と言えます。

 このように、バッハ及び賛美歌は、ルターと深いつながりがありました。さらに言えば、二人に共通したキーワードは「ベルーフ(召命)」であると言えます。多くの教会音楽を作曲したバッハですが、「私は神様に召されている」という確信があったからこそ、職人的な徹底ぶりで、毎主日、教会暦に添ったカンタータを作曲することができたと考えます。
 日本、世界でもバッハの音楽は大変親しまれていますが、そのルーツにルターの思想・論理があったことをぜひ多くの皆さんに知っていただきたいと思います。