オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

エミリー・ディキンソンの詩と信仰

 エミリー・ディキンソンEmily Dickinson(1830 - 1886)という詩人をご存知ですか? 生前、わずか10篇の詩を発表しただけで56歳の生涯を終えた19世紀アメリカの女流詩人です。没後発表された1800篇にのぼる作品により、アメリカの文学史上、奇跡の詩人とも言われ、今は多くの人に親しまれています。サイモンとガーファンクルもアルバムの曲で彼女を取り上げていました。
 東部マサチューセッツ州アマーストで生まれたディキンソンは、自宅とその庭から出ることがほとんどなく、結婚もしませんでした。朝3時に起き自室で詩作することに没頭し、一生を過ごしました。
 現在残っている彼女が17歳の時の唯一の写真です。

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    彼女の詩は難解なものも多いのですが、分かりやすく日本でよく知られているのは「駒鳥」という詩だと思います(彼女自身は題名を付けていません)。いろんな訳がありますが、中島完訳で紹介します。

 もし私が一人の心の傷をいやすことができるなら
 私の生きるのは無駄ではない
 もし私が一人の生命の苦しみをやわらげ
 一人の苦痛をさますことができるなら
 気を失った駒鳥を
 巣に戻すことができるなら
 私の生きるのは無駄ではない    (P. 982)

 原詩はこうです。
 If I can stop one Heart from breaking
 I shall not live in vain
 If I can ease one Life the Aching
 Or cool one Pain
 Or help one fainting Robin
 Unto his Nest again
 I shall not live in vain.

 この詩を初めて読んだのは、いつのことだったか、FEBCというキリスト教のラジオ番組で初めて聞いて、詩集を買い求めた記憶があります。
 旧約聖書申命記22章1節に「同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ず同胞のもとに連れ返さねばならない。」とあり、言っていることは同様でも申命記は律法で掟であり、ディキンソンの詩は自主的な行動でそれが「生きる意味」と宣言していると考えます。
 それは、他者へのさりげない小さな配慮であり、祈りです。この祈りを心に秘めて生きていきたいと願います。

  ディキンソンの詩には、小さなものや何気ないものに注がれた温かなまなざしを感じるものがあります。
 「小石」という詩があります。

 小石はなんてしあわせだろう
 道端にひとりで転がって
 履歴など気にも留めず
 いざという時も恐れない
 小石の自然な褐色の上衣に
 ゆきずりの宇宙も着けて
 また太陽のように独立して
 他の者と交わったりただひとりで光って
 なに気ない単純さで
 絶対の天命によく服している
 (P.1510)新倉俊一 訳

    原詩はこうです。
 How happy is the little Stone
 That rambles in the Road alone,
 And does'nt care about Careers
 And Exigencies never fears-
 Whose Coat of elemental Brown
 A passing Universe put on,
 And independent as the Sun
 Associates or glows alone,
 Fulfilling absolute Decree
 In casual simplicity-

    ブログで紹介したフェリーニの映画「道」で綱渡り芸人が言っていた「小石も役に立っている。何かの本で読んだ」のは、もしかしたらディキンソンの詩集だったかもしれない、などと思い巡らします。
 「履歴など気に留めず、何気ない単純さで、天命に服する」生き方ができればと願います。
 新約聖書のマタイによる福音書6章25・26節「何を食べようか何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな。(略)空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」とイエス様が勧めている生き方がこれではないか、と思います。

 ディキンソンはピューリタン的な土壌の中、教会にも属さず堅信礼を受けることもなかったため、キリスト教的でないととらえられたこともあったようですが、よく読むと彼女の詩や手紙には彼女ならではの深い信仰を私は感じるのです。

 1862年に、親しいホランド医師と夫人に送った手紙の末尾にこうありました。
「私の仕事は愛することです。私は今朝一羽の小鳥を見つけました、庭の端の、ずっと-ずっと-下の小さな藪でした。そして、誰も聞いていないのに、なぜ歌うの、と言いました。/のどで、一声鳴き、胸をおどらせて-「私の仕事は歌うこと」-そう言って小鳥はさっと飛んでいった! どうして私に分かるでしょうか、誰にも気づかれない小鳥の賛美歌注意深く聞いて喝采した天使(ケルビム)でもないのに?」(L.269)

   原文はこうです。
 My business is to love. I found a bird, this morning, down - down - on a little bush at the foot of the garden, and wherefore sing, I said, since nobody hears?
 One sob in the throat, one flutter of my bosom - "My business is to sing" - and away she rose! How do I know but cherubim, once, themselves, as patient, listened, and applauded her unnoticed hymn?

「私の仕事は愛することです。」の言葉からリジューのテレーズを思い浮かべました。リジューのテレーズ(1873 -1897)はフランスのカルメル会のシスターで、24歳の若さで修道院のなかで亡くなりました。

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    彼女が書いた自叙伝は、その死後公開されるや、大ベストセラーになり、列聖され、そしてヨハネ・パウロ二世によって教会博士となりました。彼女が神から授けられた教えと文章が多くの人々の心を揺り動かしたのです。ちなみに、日本では宮沢賢治も彼女の本を読み影響を受けたと言われます。
 この自叙伝の中にこの言葉(254)があります。
「おお、イエス、わたしの愛よ。わたしはついに天職を見つけました。わたしの天職、それは愛です。」

 時代から言えばテレーズの方が後ですが、彼女がディキンソンを読んでいたとは考えられません。「愛すること」こそ普遍的な仕事、天職であることは、時空を超えて真理なのだと思いました。

 エミリー・ディキンソンは神を見つめて生き、神から詩という賜物(ギフト)を与えられた女性だったと私は思います。
 私たちもそれぞれに賜物を与えられています。