オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

聖霊降臨後第6主日 聖餐式(新町)『どの地にも種を蒔かれる神の愛』

 今日は聖霊降臨後第6主日。一種陪餐ではありますが、新町聖マルコ教会で聖餐式を捧げました(高崎は「み言葉の礼拝」)。福音書箇所はマタイによる福音書13:1-9、18-23。説教では、「種を蒔く人のたとえ」について、ミレーの絵や当日の聖歌の歌詞等を活用して、「どの地にも種を蒔かれる神の愛」と題して、神の無条件の愛について語りました。原稿を掲載します。

  『どの地にも種を蒔かれる神の愛』
<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日の福音書はマタイ13章の冒頭の「種を蒔く人のたとえ」と18節以下の「種を蒔く人のたとえの説明」です。
 この「たとえ」の背景について、当時の農作業の状況を踏まえる必要があると思います。2000年前のパレスチナ地方の種蒔きの様子は、私たちの知る一般的な種蒔きとは違っています。この地方では、農夫が種を蒔く方法は、大きな石や雑草を取りのけると、そこに、一面に、種を掴んでパラパラと蒔いていきます。19世紀フランスの画家、ミレーの作品に「種蒔く人」という絵があります。

f:id:markoji:20200712144059j:plain

 これは、聖書の「種蒔きのたとえ」を題材として書かれたと言われています。その農夫の姿をイメージして下さい。
 この地方では、農夫は種を蒔いた後に、鋤で地面を掘り起こし、種を地面で覆います。したがって、蒔いている途中で風に吹かれる種もあれば、鋤で掘り起こしている途中に、どこかに転がっていく種もあったのです。
 ある種は道端へ落ち、ある種は石だらけの所に落ち、ある種は茨の中に落ち、そしてある種は良い土地に落ちたというのは、このような背景があったのです。
 
 今日の箇所で、イエス様は人間を4つの型(タイプ)に分けています。
 第1のタイプは道端に落ちた種です。19節に「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ」とありますが、この種が御国の言葉です。御国とは神の国ですから、種とは神の言葉であるということになります。または神の教え、福音とも言えると思います。ある種は道端に落ちます。踏み固められた道では、種は発芽することが出来ず、鳥が来て食べてしまいます。第1のタイプはこのように神の言葉や教えに触れても聞いて悟らない人です。
 第2のタイプは石だらけで土の薄い所に落ちた種です。石だらけで土の薄い所に落ちた種はすぐ芽は出ますが、根がないので枯れてしまいます。御言葉を聞いてとりあえず受け入れるものの、根がないので、艱難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまう人です。最初は、神の言葉や教えに従って生きていこうとしますが、何らかの形で壁にぶつかってしまうと、信仰という根がしっかりしていないので神の姿を見失ってしまう。そういう人と言えると思います。
 第3のタイプは茨の間に落ちた種です。茨の間に蒔かれた種は、茨が伸びて成長をふさいでしまいます。そのように、御言葉を聞いてもこの世のことの誘惑が福音を覆ってしまい、信仰が実らない人のことです。言い換えれば、この世の慣習や常識などにとらわれてしまい、それらに従ってしまう人、具体的には、富や社会的地位、学歴などといったこの世のものを追い求めてしまう人といえるかもしれません。
 第4のタイプは良い土地に落ちた種です。23節に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」とあり、良い土地に落ちた種は実を結び、もとの百倍や六十倍や三十倍にもなった、とあります。これは御言葉を聞いて受け入れ、神の教えに従った歩みをする人のことです。そのような人は、徐々に信仰を深めていき、神に似た者となっていきます。神の言葉を聞いて悟ることの重要性が語られています。

 今日の箇所で、イエス様は、道端に落ちた種、石だらけで土の薄い所に落ちた種、茨の間に落ちた種、良い土地に落ちた種という4つの例え話を用いて4つのタイプの人間を現しました。この例え話は、最初の3つのタイプ、つまり道端や石だらけの所や茨の間のような土地でなく、最後のタイプ、つまり、よく耕された良い土地のような人間にならなくてはならないというふうに読むことが多いかもしれません。
 しかし、別の見方では、このたとえ話は4種類の人間ではなく、一人の人間の中の4つの状態のことを言っているととらえることもできるのではないでしょうか?

 道端を歩み、石だらけの土地を歩み、茨をかき分け、豊かな地を歩む。これが一人の人の人生であり、一様ではありません。神様はそのような一人の人間のあらゆる状態に対し、常に良いものを与えようと望んでいるということが、今日の箇所でイエス様が教えようとしていることと考えます。
 「種を蒔く人」は私たちの心の状態がどのようでも、辛抱強く蒔き続けてくださるのです。これが神様の私たちに対する愛であります。今日の福音が語るメッセージは「良い土地になるよう努力しなさい」ということではなく「何があろうともやがて神の畑は実を結ぶ」というものです。
 私たちは皆、これまでの人生のあるときに種を蒔かれました。「種を蒔く人」は良い土地だから種を蒔かれたというのでなく、どのような土地の状態でも、悪い土地であっても、無条件に種を蒔いてくださったのです。それが神の愛です。無条件に愛してくださり種を蒔く方、それがイエス様であり、「すべての人にどのような状況でも種を蒔きたい」というのが神の御心です。
 その神の愛を知って、私たちがまずすることは何でしょうか? それは「祈り」だと思います。どう祈ったらいいか、ということでは、今日の退堂の時の聖歌の歌詞が参考になります。聖歌466番です。

f:id:markoji:20200712144158j:plain

 この聖歌の1番から4番は先ほどの聖書箇所の内容です。5番が私たちのする応答です。
 こうあります。
「神よ 恵みの雨注ぎ われの心に み教えの 
 種を生えしめ 実らしめ 神の み国に 入れしめよ」
 このように祈りたいと思います。

 皆さん、神様は一人一人を無条件に愛して、どの地にも種を蒔いてくださいます。その神の大きな愛を知るとき、自然と感謝の気持ちがわき起こります。私たちは、御言葉を聞いて受け入れ、日々神の教えに従って歩むことができるよう、そして神のみ国に入らせていただけるよう、祈り求めて参りたいと思います。