オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

復活節第3主日私祷「エマオ途上で示されたイエス様の神秘」

   本日は復活節第3主日です。
 本日も高崎聖オーガスチン教会の礼拝(公祷)は休止中で、アンテ・コミュニオン(聖餐式前半のみ・私祷)を捧げました。  
 エマオ途上の弟子とイエス様の出会いの場面において示された神秘に絞り、話しました。また、ヘンリー・ナウエンの「燃える心で」から示唆を得たので、引用して導いてみました。

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      エマオ途上で示されたイエス様の神秘
<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

  新型コロナウイルスの収束はなかなか見えず、県内でも県立学校の休校が5月末まで継続するとの報道があり、市町村立の学校もそれに続くようです。教会もしばらく公祷は再開できないように思われます。

 さて、今日の福音書箇所はルカによる福音書24章13節~35節、エマオへの道で復活の主がご自身を二人の弟子たちに現される場面です。
 このような話です。
『イエス様が十字架にかけられてから三日目、二人の弟子がエルサレムからエマオに向かうおよそ11キロほどの道を歩いていました。歩きながら二人は、在りし日のイエス様のことを話題としていました。すると、そこに一人の旅人が近づいてきて、「何を語り合っているのか」と尋ねてきました。二人の弟子は暗い顔で立ち止まりました。そして、弟子の一人がその旅人にエルサレムで起こったことの一部始終を説明しました。その話が終わると、旅人は口を開き、二人の弟子がイエス様の十字架と復活を見聞きしながら、何も悟れないでいることを厳しく責め、その事柄の真の意味を聖書に基づいて説明し始めました。
 夕暮れになり、一同が家に入って食卓を囲んだとき、パンを裂いて渡す旅人の姿を見て、二人の弟子はその人がイエス様であることが分かりました。また先ほどの聖書の解きあかしによって心燃える体験をしたことを思い起こし、喜びにあふれたのでした。
 そして、二人はエルサレムの弟子たちのもとへ、すぐに引き返して行ったのでした。』
 これが本日の福音書である、エマオ途上での復活の主と弟子たちとの出会いの場面です。

 今日は、パンを裂いたときに示されたイエス様の神秘を中心に思い巡らしたいと思います。
 注目する箇所は30・31節『イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。』です。
 原文では、パンを裂くときに、「開かれた」と受動態で述べられています。これは「神によって開かれた」ととることができます。人間が復活のイエス様を認めるためには、神様によって目を「開かれる」必要があるということではないでしょうか? また、「パンを取り、祈り、パンを裂いて渡す」・・・これは聖餐式を彷彿させます。二人はその姿の中に主の過越の食事であった最後の晩餐の様子を思い出したのでしょう。この方がイエス様だと分かりました。

 しかし、それと同時に、イエス様の姿が見えなくなったと言われています。これはどういうことでしょう? このことについて、ヘンリー・ナウエンは「燃える心で 黙想-聖餐を生きる日常」という本(見せる)の中でこう言っています。

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 『イエスが与えるパンを食べたとき、イエスが誰であるか分かり、イエスが彼らの最も深いところに存在し、今彼らの中で呼吸し語り、つまり自分たちの中に生きておられるという深い霊的確信を得たのです。イエスが手渡されるパンを食べたとき、彼らの生はイエスの生の中へと変容されたのです。もはや生きているのは彼らではなく、イエスであり、キリストが彼らの中に生きておられるのです。そして、交わりの最も聖なる瞬間、イエスは彼らの視界から消えてしまいます。』
 これは、要するに「イエス様が自分の中に入るから見えなくなる」ということではないかと思います。これこそイエス様がエマオで示された神秘であります。

 この二人の弟子はイエス様の姿は見えなくなったけれど、イエス様が自分たちのうちにおり、共におられるということがはっきりと分かったのです。私たちもイエス様を見ることはできませんが、聖書を読み聖餐に預かるとき、主が私たちのうちにおり、共におられることを体験するのであります。
 しかしながら、私たちの教会では聖餐式(公祷)が休止され、聖餐に預かれない状態が続いています。その場合に「霊的陪餐」という方法があります。最新の教区時報の最後の頁で木村司祭が「公祷休止の時の私的対応」として詳しく書かれていますのでご覧下さい(教区時報を見せる)。
 
 皆さん、イエス様は人生の旅の途上で、私たちに深く関わり、み言葉と聖餐(陪餐)を通して、ご自身の姿を神秘として示し私たちのうちにいてくださいます。
 復活され、私たちといつも共にいてくださる主イエス様に信頼し、聖書を読み聖餐(陪餐)に預かり、それにより私たちの信仰の目が開かれ、日々の生活の中でイエス様が私たちになさる業(働き)を見出すことができるよう祈り求めたいと思います。