オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

復活節第4主日私祷「門であり、真の羊飼いであるイエス様に聞き従う」

   

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本日は復活節第4主日、「良い羊飼いの主日Good shepherd Sunday」です。
 本日も高崎聖オーガスチン教会でアンテ・コミュニオン(聖餐式前半のみ・私祷)を捧げました。  
 「聞き分ける」と「門」という言葉に着目して、真の羊飼いであるイエス様に聞き従うことをテーマに話しました。毎日、流れているコロナウイルスに関する情報について今日の福音書ファリサイ派にたとえてもみました。

 

「門であり、真の羊飼いであるイエス様に聞き従う」

 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 5月に入りましたが、新型コロナウイルスの感染は留まらず、全国に出された非常事態宣言も1か月程度延長される見込みとのことです。このままの状態がしばらく続くように思われます。

 さて、教会の暦では、今日は復活節第4主日です。復活節第4主日は、毎年「よい牧者」をテーマとしてヨハネ福音書10章の「羊と羊飼いのたとえ(よい牧者のたとえ)」が読まれます。ですから、この日は「良い羊飼いの主日(よい牧者の主日)Good shepherd Sunday」とも言われます。shepherdには牧師(牧会者)の意味もあります。
 そこで、この日はカトリックでは「召命祈願の日」で、教会の奉仕のために働く者が数多く出てくるよう祈る日になっています。私たち聖公会では復活節第4主日は「神学校のために祈る主日」であり、聖公会神学院、ウイリアムス神学館のため、この後、代祷を捧げます。
 
  今日の福音書の箇所を振り返りましょう。
 1節から5節までは、当時の牧羊の状況を牧歌的に紹介しています。
 1節にこうあります。
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」
 「羊の囲い」というのは、私たちの生活にはなじみが薄いのですが、当時の羊飼いたちは、石などで羊が跳び越えられない高さに囲いを作って、夜にはそこに羊を入れておいたそうです。それが「羊の囲い」です。
 「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」とは、どういうことでしょうか? これは、強盗は、正式に門を通らないで、羊を盗んだりするためにほかの所から入るということです。
 イエス様がなぜ、この話をしたかといいますと、前の章とのつながりからです。今日の話の前に、生まれつき目の見えない人を癒やすという出来事(ヨハネ9章)があります。イエス様は生まれつき目の見えない人を見えるようにしているのに、それを見ても、ファリサイ派の人たちは、イエス様が神からのものだと信じませんでした。そこでイエス様は、御自分を信じないで、門を通らずに柵を乗り越えて入ってくる彼ら(ファリサイ派の人々)を、そして羊(民衆)がその言うことを聞かなかった彼らを、「盗人であり、強盗」だと、言っているのです。

 3節から4節では、門番は羊飼いに門を開きます。ここでは「羊は羊飼いの声を聞き分け、羊飼いに従う。羊飼いは羊を自分の子のように愛し、一匹一匹に名前をつけて呼び、羊は名を呼ばれると羊飼いの所に来る。羊飼いは先頭に立ち、羊はその後についていく」という、羊と羊飼いの関係が語られています。 
 ここで「聞き分ける」と訳されているギリシャ語原文「アクーオー」の意味は、①(一般的な)聞くのほか、②聞いて知る・理解する、③言うことを聞く・聞き従うなどがあります。つまり、羊は羊飼いの声を、単に聞くだけでなく、その意味することを理解し、その言葉に従っているのです。

 イエス様は、羊と羊飼いとの関係を、たとえとして語りましたが、イエス様のこの話を聞いていたファリサイ派の人々は「何のことか分からなかった」(6節)のです。そこで、イエス様は7節から10節でこのたとえを解説されました。 
 ここで、イエス様は御自分を「羊の門である」と言われます。門はそれを通る者が救われる門であり、出入りして牧草を見いだすための門です。このように、「門」は二重の機能を果たします。門の中にいる羊にとって、真の羊飼いとそうでない者とを識別するためのしるしであり、同時に、そこを通って、豊かな牧草地へと導かれるための通路でもあります 。
 「門」であるイエス様を通って「入る」なら、その人は救われるのです。この「門」とは、神の国・永遠の命にいたる門です。イエス様が救いへの門の役をしているのです。イエス様の声に聞き従う羊はここを出入りして、豊かな牧草を見つけ出します。この「門」を通る者には命が与えられます。盗人は「盗み、殺し、滅ぼす」ために来ますが、イエス様は羊が「命を豊かに受けるために」来たのです。
 
 皆さん、私たちは毎日、コロナウイルスに関する情報をたくさん聞いています。その中には不確実で私たちを恐怖と混乱に導くものもあります。まるで今日の福音書ファリサイ派のようです。「盗人であり、強盗」である彼らの声に従うことをイエス様は戒めています。
 私たちは羊、イエス様は羊飼いです。イエス様は神の国・永遠の命にいたる門であり、私たちを導く真の羊飼いです。主イエス様は今日も私たち羊の名を呼んでくださっています。私たちは聞き覚えのあるその声に聞き従い、イエス様の後をついて行きましょう。そして、神様のみ旨・みこころにかない、主に喜ばれる良い業を行うことができるよう祈り求めて参りたいと思います。