オーガスチンとマルコの家

勤務している高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報やキリスト教文化や信仰などの話題を掲載します。

「T. S. エリオットの詩と信仰(3)」

 これまでT. S. エリオットの詩と信仰について2回取り上げました。最初は、彼の詩「聖灰水曜日(灰の水曜日)」について、2回目は詩集「キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法」とミュージカル「キャッツ」についてでした。今回は彼の詩業の集大成であり「現代の宗教文学・瞑想詩の一秀作」とも言われる長編詩「4つの四重奏曲」、そして彼の信仰について思い巡らしたいと思います。
  「4つの四重奏曲 Four Quartets」はエリオット51歳の1943年に刊行されました。《バーント・ノートンBurnt Norton》(1936発表)、《イースト・コーカーEast Coker》(1940)、《ドライ・サルビッジズThe Dry Salvages》(1941)、《リトル・ギディングLittle Gidding》(1942)という作者ゆかりの地名をそれぞれ題名とした4編の室内楽的構成の詩より成っています。
 今回、私が読んだ詩及び解説はこの本「四つの四重奏曲(T. S. エリオット、森山泰夫 注・訳)」です。

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 この本の「はしがき」の一節にこうあります。
『Four Quartetsは人生最高の真理を渇望する心を、自然な言葉が持つ最高の美を引き出して表現した4篇の詩である。作者の詩の修行がここに大成を見、魂の遍歴の最後の道程がここに窺われる。(中略)永遠の真理を求める魂の憧憬は、この詩においてついに光を見出し、豊かな歓びが漂っている』
 「Ⅱ 思想内容」の項にはこうあります。
『Four Quartetsのテーマは、一口に言って「時間と非時間が人間の生に対して持つ意義」である。これをやや敷衍すれば、時間の中で生活しながら非時間(永遠)に接することを願い、果たし、そして時間の世界のみならず非時間の世界をも視野に収めながら、現実を新しい気概をもって生きてゆく決意を歌っている』
 このようにエリオットの研究者である森山泰夫教授は述べています。
 
   最初の詩《バーント・ノートンBurnt Norton》の冒頭はこうなっています。

  Time present and time past
  Are both perhaps present in time future,
  And time future contained in time past.
   If all time is eternally present
   All time is unredeemable.
   What might have been is an abstraction
   Remaining a perpetual possibility
   Only in a world of speculation.
   What might have been and what has been
   Point to one end, which is always present.
   Footfalls echo in the memory
   Down the passage which we did not take
   Towards the door we never opened
   Into the rose-garden. My words echo
   Thus, in your mind.

    現在の時も過去の時も
  たぶん未来の時の中にあり、
  また未来の時は過去の時に含まれる。しかし
  もしもあらゆる時が常にそこにあるなら
  あらゆる時が贖えなくなる。
  「そうなっていたかもしれない」ことは
  臆測の世界でのみいつも可能な
  抽象にすぎない。しかし
  「そうなっていたかもしれない」ことも「そうなっている」ことも
  所詮は同じことで、いつもそこにある。
  足音が記憶の中にこだまを響かせながら
  まだ通ったことのない狭い路地を辿って
  まだ開けたことのない扉に向かい
  バラ園に入って行く。ぼくの言葉も
  そんなふうにきみの心にこだまする。

 ここでは、時間についての抽象概念を詩的に要約しています。過去は現在に生き、現在はやがて未来に続いてその中で生きる・・・こう考えれば、私たちは常に過去や未来に接することができます。それは時を「取り戻す」ことによって可能になると言っているようです。
 5行目の「All time is unredeemable.(あらゆる時が贖えなくなる)」に注目します。redeemは単なる「取り戻す」ことではく、何かを犠牲にして、その代償として取り戻す。つまり「贖う」ことです。その典型はキリストの贖罪であり、ここでも言外にこのことに言及していると言えます。
   14行目のthe rose-garden (バラ園)は、過去の経験世界の楽園(パラダイス)でもあると考えます。詩人は、そこに入る追体験の旅に私たちを誘っているように思われます。

 この後、時間に関する様々な思索・黙想の旅が続きますが、4篇目の最後の詩《リトル・ギディングLittle Gidding》の最終章に印象的な言葉がありました。

  What we call the beginning is often the end
  And to make an end is to make a beginning.
  The end is where we start from…
  ・・・・・
  We shall not cease from exploration
  And the end of all of our exploring
  Will be to arrive where we started
  And know the place for the first time.”

  いわゆる「始まり」とは「終わり」のことがしばしばで
  終了することは開始することに他ならない。
  終わりはすなわち出発点…
  ・・・・・
  われわれは探求をやめない
  そしてすべての探求を終わったとき
  もとの出発点に到着し
  その場所を初めて知る。

 今は三月、別れと終了の季節ですが、それはまた新たな出会いと開始を生むことを私たちは経験から知っています。
 さらに、この箇所から、このようなことが導かれるでしょう。
「私たちは どこへ向かって旅をするのか。それは 元いたところへ帰る旅。人生の終わりはそれで終わるのではなく、出発点である天の御国に帰ることである」と。
 森山泰夫の注にはこうありました。
『始まりも終わりもない悠久の神の愛の中で人間は創られ、歴史をいとなみ、そしてその歴史もやがて終わる日(終末)が来る。それも、神の愛に見守られ、その懐に抱かれながら終わるのであって、かくて至福の永遠の日が来る。エリオットは長い探求の旅を経て、救済を確信するに至った。』

 エリオットがこのような精神的・宗教的な深い内容に到達した背景には、どのようなことがあるでしょうか? 彼の人となりや日常生活等についてはこの本が参考になりました。清水書房のセンチュリーブックス、徳永暢三著「T. S. エリオット・人と思想」です。

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 この本の中で、「四つの四重奏曲」についてはこうありました。
『この詩は20世紀英詩の傑作となっていることに疑いを挟むことは難しい。たとえばアメリカの神学者ラインホールド・ニーバーはこの詩を敬虔な気持ちで定期的に読んだと言われる』と。かの「God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, 神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください」で始まるSerenity Prayerで有名なニーバーもこの詩を愛読したのでした。
 この本の「エリオットのキリスト教」の項にはこうありました。
『エリオットは1934年から25年間、ロンドンのグロスター・ロードにある聖スティーヴンズ教会の教区委員を務め、戦争までの時期、この教会の牧師館に下宿し、常にやや牧師めいたライフ・スタイルを保っていたようである』と。
 また、1946年に移り住んだロンドンのチェルシー・エンバンクメント沿いのアパートにおける彼の生活についてこう記されています。
『エリオットの日常生活は、朝6時半にアパートを出て、早朝のミサに出席するためグロスター・ロードの聖スティーヴンズ教会へバスで行き、帰宅してから、たっぷりしたイングリッシュ・ブレックファーストをとり、仕事を始める前に「タイムズ」紙のクロスワード・パズルをし、それから書斎に入る、といったきまりになっていた。』
 エリオットは、「聖灰水曜日(灰の水曜日)」ではいまだ信仰的に揺らいでいた面がありましたが、「四つの四重奏曲」では人生の意義について「神のもとに帰る」という確信に至っているように思いました。その背景には、彼のこのような日々の信仰生活があったのです。

 T. S.エリオットの詩には、彼の日々の信仰生活が反映していました。私たちキリスト者の「人生」という作品も、日々の信仰生活の反映です。私たちも教会生活や日々の祈りを大切にすることにより人生の意義を知り、神様の隠された秘儀に近づき、信仰的な確信を得たいと願うものであります。