オーガスチンとマルコの家

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聖霊降臨後第7主日 聖餐式『麦も毒麦も一緒に育つ神の国』

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左が麦、右が毒麦です。


 今日は聖霊降臨後第7主日。高崎聖オーガスチン教会で聖餐式を捧げました。
 聖書個所は、知恵の書12:13、16-19 とマタイによる福音書13:24-30、36-43。説教では、「毒麦のたとえ」について、「神の国は麦と毒麦が混ざって育っている姿である」ととらえ、当日の知恵の書を引用し、「私たちがなすべきことは何か」と問いかけました。また、昭和天皇の「雑草という草はない」と言われたエピソードにも言及しました。
 「み言葉が自分たちの生活とどう関係するか」という視点を大切に述べてみました。

  『麦も毒麦も一緒に育つ神の国
                 
 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日の福音書の箇所は、マタイによる福音書13章24節以下の「毒麦のたとえ」と36節以下の「毒麦のたとえの説明」です。
 マタイ福音書13章には天の国(=神の国)のたとえが集められています。先主日の箇所は「種を蒔く人」のたとえで、「どの地にも種を蒔かれる神の姿」が描かれていましたが、それに続く今日の箇所では、神の国の姿が描かれています。それは何かと言いますと、神の国は麦と毒麦が、混ざって育っているという姿であります。  
 前半のたとえの内容はこうです。イエス様が群衆に「天の国(=神の国)はこのようだ」とお話しになりました。ある人が「良い種」を蒔いた後、夜のあいだに「敵」が来て「毒麦」を蒔いていったので、気がついた時は毒麦も一緒に伸びてしまいました。僕たちは「良い種しか蒔かなかったはずなのに」と慌てふためき、「それでは毒麦を抜き集めておきましょうか」と主人に提案します。しかし「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と主人に言われてしまう、というものです。
 毒麦とは何でしょうか? 聖書辞典等で調べるとこうありました。「毒麦はイネ科ドクムギ属で、一般に雑草として扱われている。若いうちは小麦とよく似ているので識別が困難であるが、収穫の時期になれば識別しやすくなる。毒麦はもともと毒はもっていないが、植物の表面につく内生菌が毒素をつくり、間違って口にすると味は苦く、めまいを起こしたり、嘔吐することがあると言われている」

 毒麦は弱い毒素のある雑草と言えます。若いうちは小麦とよく似ているので、収穫の時期まで小麦と混ざって育っている、その状況を知っている群衆に、神の国の姿として、イエス様がたとえとして述べられたのです。
 後半のたとえの説明では、「毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」(40節)とあり、最終的に神が毒麦(=罪びと)を裁く」という恐ろしい話のようですが、見方を変えれば、それが起きるのは未来であり、「今は裁かない」ということであり、また、「裁くのは神である」と言っていると見ることもできるのです。
 
 このたとえでイエス様が指摘していることはどんなことでしょうか? それを知るためには、当時のイエス様の置かれた状況を確認する必要があると思います。
 この時イエス様に付いていった群衆にはどのような人がいたでしょうか? 盲人等体の不自由な人々、一縷の望みで病を癒やしてほしいと願った人々、徴税人や娼婦等、ファリサイ派や律法学者たちから罪人と見なされた人々が多かったと推察されます。弟子たちは当時のユダヤ社会の常識から判断して、そのような人たちを自分たちの共同体から排除すべきと考えたのではないでしょうか? イエス様はそのような罪人と見なされていた人たちを「毒麦」とたとえ、それを排除しようとする弟子たちに対して「そのままにしておきなさい」と命じたのではないでしょうか?
 私たちはどうでしょうか? それぞれの職場・教会・家庭・地域等で、自分たちの常識で自分たちと状況や意見の違う人を「毒麦」と判断して排除しようとしていないでしょうか?

 ところで、植物としての毒麦は雑草の一種です。雑草と言うことで思い浮かぶエピソードがあります。それは昭和天皇が「雑草という草はないのです」と言われたエピソードです。こんな話です
昭和天皇の留守中に庭の雑草を刈っていた入江侍従に対して昭和天皇が「どうして草を刈ったのかね?」とお尋ねしたところ、「雑草が生い茂って参りましたので、一部刈りました。」と入江侍従が答えたそうです。
 そのとき、天皇は、
「雑草という草はない。どの草にも名前はある。そしてどの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいる。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけません」とおっしゃったと言うのです。』
 どの草にも名前があり、どの植物にも命がある。そして、どれも切実に生きている。雑草と言われるような草もないがしろにしてはいけない。そんなことを考えさせられます。

 しかし、今日の福音書の「毒麦のたとえ」は、この昭和天皇のエピソードのようにどの植物も、ひいてはどの人も大切にしなさい、で終わる話ではありません。それはどのようなことでしょうか? 
 それは本日の第1朗読で読んでいただいた旧約聖書続編、知恵の書に示されていると考えます。知恵の書は、紀元前1世紀にアレキサンドリアで書かれた「知恵文学」です。本日の箇所では「神は、いつくしみ深くまた正義の神」であることが示され、最後の12章19節にはこうあります。
「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。」
 神様は自らの行いによって私たちに愛することを教え、私たちに希望を与え、罪からの回心(神に立ち帰ること)をお与えになったのです。

 私たちがなすべきことは何でしょうか? それは自分の判断で毒麦を排除することではないでしょう。今は裁く時ではありません。しかも、裁きは最終的に神様がなさいます。私たちは「そのままにしておきなさい」と命じられた神様の意向に沿い、神の国の中で麦も毒麦も一緒に育ちたいと願います。もしかしたら自分が毒麦かもしれないとも思います。
 私たちがなすべきこと、それはすべての人と共に育つこと、そして罪からの回心(神に立ち帰ること)ではないでしょうか?

 皆さん、神様は私たちが一人も滅びることなく、すべての人々が救われることを願っておられます。その神様を信頼し、麦も毒麦も今はそのままにされておられる神の計らいに身を委ね、すべての人と共に育ち、日々神様の方を向いて人生を歩んでいけるよう祈り求めたいと思います。