オーガスチンとマルコの家

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聖霊降臨後第16主日 『慈しみあふれる神の賃金』

 今日は聖霊降臨後第16主日。高崎で「聖餐式」の司式・説教をしました。
聖書個所は、ヨナ書3:10-4:11とマタイによる福音書20:1-16。

 説教では、慈しみあふれる神の御心に応え「すべての人を救いたい」という神の思いを成し遂げ共に歩むことをテーマに語りました。また、真逆の例として、相模原の障害者施設での殺傷事件「やまゆり園事件」についても言及しました。

   『慈しみあふれる神の賃金』

 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 今日の福音書は、マタイによる福音書20章1-16節の「ぶどう園の労働者のたとえ」と言われる、イエス様が語られた「たとえ話」です。今日の箇所をふり返ってみます。

 ある家の主人がぶどう園で働く労働者を雇うために夜明け前(午前6時頃)に出かけて行って、1日につき1デナリオンの約束で労働者を雇いました。1デナリオンとは当時、1日の労働に対する平均的な賃金でした。その主人は9時頃にも何もしないで広場に立っている人々がいましたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言って彼らを雇いました。昼の12時頃と午後3時頃にも、その主人は広場に出かけて行って同じようにそこにいる人たちを雇いました。もう1日が終わろうとしている5時頃にもその主人は人を雇いにやってきました。そして、誰にも雇ってもらえないその人たちを、わずか1時間だけでも雇ったのです。
 さて1日の仕事が終わり、賃金が支払われる時が来ました。最後(5時頃)に来た人から賃金が支払われました。1デナリオンずつ支払われていきました。そして最後に、最初に雇われた人(夜明け頃から働いていた人)にも賃金が支払われました。その賃金は同じ1デナリオンでした。夜明け前から働いていた人たちは『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』と不平を言いました。
 すると、このぶどう園の主人は、その一人に『自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。』と、言いました。
 そして、この「たとえ」の最後に、イエス様は「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」と言って、この話を結ばれました。

 この「たとえ」の最初に、イエス様は、「天の国は次のようにたとえられる。」とおっしゃって、この話を始められました。夜明け前(午前6時頃)に雇われた人は暑い中、一日中12時間働きましたが、午後5時に雇われ1時間働いた人と同じ1デナリオンを支払われました。この「たとえ話」を聞いて、皆さんは、どのように感じられるでしょうか?

 今日の社会では、賃金は労働の対価として支払われ、「同一労働、同一賃金」ということが盛んに言われています。働いた量、働いた時間に対して、同じ賃金を支払うということは、私たちの常識です。
 ところが、先ほどお読みした福音書では、イエス様は、全く違った、不公平、不平等な労働条件で働かせた例を示して、「天の国のたとえ」を語られました。ここで述べられている神様の真意、思いはどういうことでしょうか?
 そのことでは本日の旧約聖書のヨナ書4章が参考になります。この箇所では、日陰になっていた「とうごま」が枯れたことを惜しむヨナに対して、神様は11節で異教徒、異邦人の国に対して「それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」と語るように、神様の慈しみに満ちた寛大な振る舞いが述べられています。
 それは、今日の福音書で示されている、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と言って1時間の労働に対しても1デナリオンの賃金を与えるという、常識では考えられない、気前のよい慈しみあふれる主人の姿と共通するものです。
 本日の旧約聖書、そして福音書を通して「神様は、このように慈しみあふれるお方です」と言っておられるのであります。
 そして、福音書のこの話は天の国、神の国のたとえ話です。つまり、この世の労働、価値基準の話をしているのではありません。また、「神様の世界が私たちが生きていく中で、どうあるか」と問いかけている話でもあります。自分を12時間働いた労働者の側に置けば不平も出てくるかもしれませんが、自分が夕方になっても誰にも雇ってもらえなかったのに1時間働いて1デナリオンの賃金をいただいた者だったらどうでしょうか? 本当にお恵みと感じて喜んだと思います。
 ところで、この主人は神様、ぶどう園は御国(神の国)を表していると考えられます。では「1デナリオンの賃金」とは何でしょうか? 神様が能力や効率にかかわらず、すべての人に支払いたいと願っているものです。それは神様と共にある「永遠の命」ではないでしょうか? それは御国に仕えた報酬ではなく、神様からの賜物(恵み)であります。

 このことに関して私が思い浮かべる事柄、というか事件があります。この世の価値観の方ですが・・・。それは4年前の7月26日に神奈川県相模原の障害者施設で起きた「やまゆり園事件」です。「重度の障害者は生きている価値がない」とその施設に入所していた19名を元職員の植松聖が殺害した事件です。私は今この本「神奈川新聞取材班 やまゆり園事件」を読んでいます。

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 地元紙記者がこの事件の背景にあるものを懸命に追い求めた4年間のドキュメントです。この本の副題は「植松聖とは誰なのか?」です。彼は今年3月に死刑が確定しましたが、それでこの事件が解決したとは思えません。今の日本社会が有する能力主義、効率主義、優生思想が彼に犯行を起こさせた面もあるのではないでしょうか? 
 今日の「たとえ話」と真逆の価値観がこの社会で以前より増幅されているように感じるのは私だけではないと思います。

 このような中で、私たちが、また教会が求められているのはどのようなことでしょうか?  
 私たちは、だれも能力や効率によらず1デナリオンという神様からの恵みをいただいています。それは「永遠の命」という賜物です。私たちにはイエス様という希望が与えられています。ですから、本当の愛を生きることができるのです。そして、常識では考えられない気前のよい神様を信じているのですから、御心に応えて神様と共に歩んでいくことが求められていると思います。
 また、教会は天の国の先取りであり、神の国をこの世で指し示す存在であります。その原点を忘れてはいけないと考えます。
  私たちは、慈しみあふれる神様の恵みに感謝し、「すべての人を救いたい」という神様の思いを成し遂げることができるよう、私たちも共に歩むことができるよう、祈り求めたいと思います。